幸せになるには、人生の嘘を勇気をもって捨てて「いま、ここに生きる」だけでよい - 龍光ブログ

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またまた長いタイトルのブログです😅。

「幸せとは」を探求した、

アドラー心理学について語られた国内外のベストセラー

「嫌われる勇気」を拝読した自分なりの学びのまとめです。


本文も、長ーいですよ。




さて、元はと言うと、

20年来の親友、ジャズ・ピアニスト永田ジョージが

「君が語るブッダの教えって、アドラー心理学とすごく近いんだよね」と

この「嫌われる勇気」を勧めてくれたのが始まり。


名前は聞いたことがある本でもあり、読んでみたいと思い

この本を電子書籍で購入しようとAmazonで探してみたら…。


ん・・・?



「お客様はこの商品を2016年11月に購入しました」

なん、だと…😂。


しかも、読み始めてみたら、ところどころマーカーまで引いてあるじゃないか!

思わず

「誰だ!自分がウンウンと頷きそうな内容に勝手にマーカーを引いたのは!」

と言いたくなる…。


なのに、読んだ記憶が全く抜け落ちているではないか。。。

一体、何を読んで学んだ"つもり"になっていたのだろう、過去の自分は!


でも、読み進めるほどに、

自分なりにブッダやら過去の偉人らから教わった

「幸せである考え方、生き方」と

アドラーの説く「幸せになるため」の教えとの間に

とても共通した内容が多いと感じていく。


この本を読んだ事は覚えてなかったのだけれど

過去に読んだ内容は、(願わくは)ある程度

脳内に焼き付いてくれていたのであろうか…。


…と、まぁ、そんなクダラナイ前置きはさておき、

大切な中身について、ざっと下記にまとめていきます。


この本では、

特に、親子関係での悩みについて(ひきこもり、親への反発、問題行為など)

記述が多く、そういったテーマで悩んでいらっしゃる方には

願わくば実際に手にとって読んでいただきたい本です。

大いにショックをうけたり、反発も感じられるかもしれませんが、

善きヒントになるのでは、と願っております。


ブッダの教えも、時にストレートで手厳しく感じることもあります。

幸せになりたい(苦しみたくない)なら

「他を頼らず、自分を頼りなさい」とか、

「つねに気をつけて、最後まで怠らずにいきなさい」とか。


アドラー心理学の内容も、どストレートで、

時に痛みを感じる内容かもしれません。

時に、大いに疑問や反発を感じるかもしれません。


が、切に、我々の幸せを願ってくれたがゆえの、ストレートな教えであるのだろう。

そんな気持ちで読んで頂けましたら幸いです。


では、一緒に参りましょう。

自分なりの言葉での上書きも多分にある点、ご容赦くださいませ。


-----

「自分は幸せじゃない」「自分は変われない」

それは、実は「変えたくない自分」がいるから。

変えることにより、変化に対応するエネルギーを求められたり

変わる過程で傷つくことを避けたいから。

「変われない」「変えられない」「自分は幸せじゃないんだ」

そう、自分を信じ込ませ、言い訳にしようとしている。


劣等感は、それを穴埋めしようとする向上心を生み、努力に繋がるものだが、

健全な劣等感は、他者と自分との比較ではなく、

理想の自分と現状の自分との比較から生まれる。

他者との比較など気にせず、ただ自分が前に進んで歩いていけばよい。

今の自分より前に進もうとすればよい。


「自慢」という行為は、劣等感を武器にして

他者より「優越」を得ようとする行為。

劣等感を埋めたいがために、優位な立場を確保しようと、

権威付けをしようとしている行為。

高級品で身を飾ったり、有名人との繋がりを語ったり、

過去の功績や武勇伝を語ったり、あるいは自分の不幸を自慢げに語ったり。

これは、今の自分に自信が無いゆえ、

何か優越できると感じられそうなものに頼る行為である。

ありのままの自分を、恐れずに見つめて

勇気をもって受け入れることから、すべては始まる。


悩みの全ては対人関係から生まれる。

対人関係において「競争」の意識があると、競争の先には勝ちと負けがあるため、

人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸からも逃れられない。


あの人は自分より、知名度がある、

お金がある、すぐれた能力がある、運に恵まれているなどなど…。

他者との比較は競争(勝ち負け)の意識をうみ、

それが自分に劣等感を生み出す。

常に他人との競争、勝ち負けを意識した世界にいると、

常に勝ち続けたくなり、負けたくなくなり、

他者を信じにくくなり、幸せを実感しにくくなる。


気がつくべきは、

「実は、あなたを競争相手として常に気にしている人など、

あなた以外に誰もいないのだ」ということ。


他人と自分を勝ち負けで比較するのではなく、

他人の優れた状態や他人の幸福を

自分の負けととらえる状態から自分を解放できれば、

誰かに勝つ必要も、負ける恐怖もなくなり、

他者の幸せを積極的に祝福できるようになり、

他者との関係も、"敵対"から、"仲間"に変わりうる。

人々は競争の相手なのではなく、

自分の仲間だと実感できれば、世界の見え方は大いに変わっていく。


自分が人格などを攻撃された時は、スルーすればよい。

「我慢」するのでもない。

「我慢」は、負けている、劣等であるという意識をもち、

優越を取り戻そうとしたい行為を抑えようとしている状態。

そもそも、勝ち負けなどではなく、

ただ相手は自分に優勢の立場に立ちたいのだなぁと冷静に観れれば、

言い返すことも必要性がなくなる。


逆に、いくら自分が正しいと感じ、相手が正しくないと感じる時であっても、

それを理由に相手を攻撃したり非難したりしないように気をつけねばならない。

人は、相手に対して「自分は正しい」と思った時点で、

すでに相手との権力争い(優位な立場の取り合い)に足を踏み入れてしまっている。

主張の正しさというのは、勝ち負けと関係がない。

自分が正しいと思うのなら、他人の意見がどのようなものであれ、

それだけで完結すべき話しである。

そこでは権力争い(勝ち負け)が生じ、相手を屈服させようとしてしまいがち。

自分の誤りを認めることを自分が負けることと捉えてしまいがち。

"勝ち負け"で見ようとするメガネを外してこそ、

自分を正しく変えていきうる。


一人の人間が社会的な存在として生きていくにおいては、

対人関係は避けて通れない。

そして、人生の悩みや苦しみは対人関係から起こる。

アドラー心理学は、他者を変えるためのものではなく、

自分が変わるためのものである。


相手が幸せそうにしていたら、その姿を率直に祝福することができる。

それが"愛"というもの。

相手にこうしてほしいと一方的な期待を求めることや、

こうしてほしくないと求めることは、

相手への束縛でも有り、相手を支配せんとする心の表れでもあり、

相手への不信感に基づく考えでもある(子供に対しても)。

お互いに束縛しあう関係は長続きしない(夫婦や親子であっても)。


自分が幸せと感じるも、不幸せと感じるも、

それは自分が選んだ"人生のあり方"によるもの。


「自分には〜がないから幸せではない」として感じる苦しみは、

実は自分に「〜があったら」という可能性に対し勇気を持てずに

自分に嘘をついて、「〜がない」状態を言い訳に、

今あるままに安住し変化を避けるべく、

自ら選んでいることで生まれている。


我々は、他者の期待をみたすために生きているのではなく、

自分自身を満たすために生きている。

他者に承認してもらうこと自体を目的にして、

他者の期待になぞった生き方が、

自分を満たす生き方になるわけではない。

それは不自由を感じる生き方となる。

他人に承認されることを目的にした生き方は、

自由な生き方とはいえず、苦しみをもたらしうる。

自由とは、他者から嫌われる勇気をともなう事である。

誰しも、他者から嫌われたくはないが、かといって、

全ての他人から嫌われないように立ち回るのは、

不自由極まりなく、かつ不可能なこと。

他者から嫌われることを目指すわけではなく、嫌われる勇気をもつことで

自分の生き様を貫く自由を保つのが大切。


自分ができるのは、自分の感じる最善の道を選ぶことで、

それに対する他者がくだす評価は、それは他者の課題であり、

自分には介入できない、どうにもできない課題である。


「他者からどう見られているか」ばかりを気に掛ける生き方こそ

実は「自分」にしか興味をもててない、自己中心的な生き方である。

その、自己への執着(自己中心的な傾向)を、

他者への興味・関心に置き換えていくことが、

幸せへと向かうカギとなる。


自分は、様々な他者や動物や自然などの"共同体"の一員であり、

その共同体への"所属感"をもつことは人間の基本的な欲求である。

「ここにいてもいいのだ」と、誰もが求めるものである。

そして、自分の人生の主人公は自分であるのだが、

「自分」は決して世界の中心に君臨しているわけではない。

あくまで、共同体の一員でしかない。

そして、所属感というのは、黙って待っていて得られるものではなく、

自ら共同体へ積極的に"貢献"をしていくことで得られるものである。

「その共同体の一員の誰かに、自分は何ができるのか」を考えることから

所属感が生まれてくる。


その"共同体"は、会社や学校や家族といっただけに限らず、

無限に広がりうるものである。

自分が食べたパンは、誰かが作ってくれたパンで、

そのパンのコムギも誰かが育てて、

パンを運ぶ人もいて、運ぶための輸送につかったガソリンもあり、

産油国でガソリンを精製する人もおり…、など。

そう考えると、人は実に様々な共同体に所属している。

仮に1つの共同体(学校や会社など)で何かしらのトラブルで、

底への所属感を感じられにくい状況がおきても、

人は、もっと広い視点での様々な共同体への所属感を保つことは可能である。

そうして、1つの共同体だけではなく、その外に広がる共同体へ意識を向けることで、

仮に1つの共同体の中で嵐のような苦しさがあっても、

それはコップ(1つの共同体)の中だけの出来事にすぎないのだと

識ることができる。


そして、親子も含めて、

対人関係を"縦の関係"で捉えるのを"横の関係"で捉えるのが大切である。

"縦の関係"で捉えると、上から下に見下す見立てが生まれ、

他人への操作を目的とした「介入」が生じる。


子供へ「勉強しなさい」というのは、

子供の未来を思う善意での発言だとしても、

実は子供への操作を目的にした"縦の関係"の意識からの介入となり、

言われる側も違和感を感じるものである。

"縦の関係"による上からの介入ではなく、フラットな"横の関係"として

"援助"することが大切である。(たとえ自分の子供に対しても)

子供が勉強を実際にするかは、本人の課題であり、

他人である親も介入はしきれない。

子供本人が「自分には勉強ができるのだ」と自信を持ち

自ら課題へ取り組むべく援助をすることまでしかできない。

馬を水辺につれていくことはできるが、水を呑ませることはできない。

呑むかどうかは馬次第である。

"援助"は"勇気づけ"とも言える。


他者を評価するのは、"縦の関係"から生じるものであり、

ただ、"横の関係"として「有難う」と伝えれば良い。

他者のことを、その人の行為のレベルではなく、存在のレベルでみていく。

その人が「何をしたか」で判断せずに、そこに存在していることそのものを喜び、

感謝の言葉を伝えていく。

仮に寝たきりで、痴呆などで他者への認識がなかったとしても、

そこに存在しているだけで、すでに他者の役にたち、価値がある。

どれだけ勉強やスポーツができたり、どれだけ経済界で大きな事を成しても

歳をとったり病気などで、やがて「何かをする」ことが難しい状況は訪れうる。

自分の子供が、勉強ができなくても、災害などで生命の危険があった時に

生命を保ってくれていてただけで、嬉しいものではないだろうか。


まずは、他者を無条件に信じる。

仮に裏切られる可能性があっても、いっさいの条件をつけず、まずは信じる。

その逆の行為が「疑い」を持つということ。

疑いをもって接する人に、自分は心を寄せたがり、繋がりを保ちたがるだろうか。

裏切るかどうかは他者の課題であって、自分が介入できることではない。

だから、自分はただ、シンプルに、他者を信じればよい。

それが信頼するということ。

これは、道徳的な価値観ではなく、

対人関係を良くして、結果自分が幸せを感じるべく

"横の関係"を保つための"手段"である。

信頼すること(そして裏切られるかもしれないこと)を恐れていたら、

結局は誰とも深い関係を築くことは出来ない。


そして、他者に貢献をする。

他者貢献は、自己を捨てて誰かにつくすことではなく

むしろ自分の価値を実感するためになされること。


労働は金銭を稼ぐ手段ではなく、

労働を通して他者貢献をし、共同体にコミットし、

「わたしは誰かの役にたっている」ことを実感して、

自分の存在価値を受け入れること。

「ここにいていいんだ」という所属感を確認すること。


他者が自分に何をしてくれるかではなく、

自分が他者に何を出来ているかを考え、実践する。

その貢献の実感が心に生まれれば、

目の前の景色は大きく変わってくる。

そこで「なぜ自分だけが」「なぜ誰も自分を助けてくれない」とイライラすれば

周りは手伝うどころか、近寄ることも避けたがるのでは。

でも、「自分は誰かの役に立てている」と幸せそうにニコニコしていたら、

周りの人も近づきたくなるものでは。そして、時に手伝ってもくれるものでは。


まずは、自分をありのままに受け入れる。

そうしてはじめて、他者に対しても裏切りを恐れることなく信頼できるようになる。

その信頼をもって、争いあう敵でも競争相手でもなく、共同体の仲間として接するから

その他者への貢献をしようと思う心が生まれる。

そして、他者に貢献をできている実感が、

「役に立てているのだ」「ここにいていいのだ」と

結果として自分の幸せ感をもたらし、

安心して、ありのままの自分を受け入れられるようになる。

そのように、循環が生まれてくる。


もし「みんな〜」「いつも〜」「すべて〜」という言葉がでてきたら注意が必要。

一部をみて、全体を判断してしまっている可能性がある。

それは、「人生の調和を欠いた生き方」である。

どうでもいいはずのごく一部だけに焦点をあてて、

そこから全体を評価しようとしている。


幸福とは、貢献感である。

自分の貢献が実際に役にたっているのかの評価は他者の課題であり、

自分では介入できない。

本当に貢献できているのかも、(仮に評価をつたえられても本当かどうか)分からないものである。

ポイントは、目に見える貢献がなくとも

自分が「貢献感」を感じていれば、それだけでよい。

「わたしは誰かの役に立っている」と主観的な感覚を持てればよい。

そこに他人からの承認がいるわけではない。

行為のレベルで誰かの役に立っていなくても、

存在のレベルで誰かの役にたつことは可能で、

本人さえ貢献感をかんじられれば、その本人は「幸せ」を感じることができる。

ゆえに、全ての人は幸せになることができる。


「特別な存在」になろうとしなくてもよい。

「普通」というのは、無能のことではない。

わざわざ自ら「特別だ」と優位性を誇示する必要などない。


ひきこもりや自傷行為、問題行動などは、

「特別でありたい」優越性を求めるがゆえに起こす行為である。

「普通」であることの勇気をもててない状態ともいえる。


人生は、今という刹那の連続。

登山で頂点を目指すことだけを目的に定めて生きると、

そこに至る前の全ては「途上」の人生となり、

幸福感が得にくい。

登山そのものを目的でよい。

ただ一歩一歩を真剣に丁寧に踏み進んでいく。

そうして気がつけば遠くまで来ていた。それでよい。

目的が登頂でなくてよく、目的が登山そのものであれば、

登頂できるかどうかは関係がない。


我々は、いま、ここにしか生きることはできない。

計画的な人生など、それが必要か不必要か以前に、不可能なのだ。


いま、ここに真剣に丁寧に生きる。

そうしていれば、過去が気になってしまうことや

未来をみえるような気になってしまうことはない。


人生における最大の嘘は、いま、ここを生きないこと。

いま、ここから目をそむけて、有りもしない過去や未来に

うすぼんやり光をあてて見えたつもりになって、

いまのかけがえのない刹那に、自分の人生に、

大いなる嘘をついてしまう。


その人生の"嘘"を振り払って、

勇気を持って、

いまここに強烈にスポットライトをあてて

丁寧に真剣に生きる。


決めるのは、昨日でも明日でもなく、いま、ここ。


人生には時に理不尽なことも起きる。

年端のいかない子供が戦争や災害で失われることも。

それをどう捉えればよいのか。

人生一般には意味はない。

人生の意味は、あなたが自分に与えるものだ。

あなたの人生に意味をあたえられるのは、他ならぬあなただけなのだ。


迷わしい時は「他者貢献」という星を目指し続ければ良い。

そうすれば、常に幸福感を感じ、仲間とともにあれる。


自分の力は計り知れないほど大きい。

自分が変われば、自分の目に映る世界は変わる。

世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、

ただ自分によってしか変わり得ない。


誰かが始めなくてはならない。

他の誰かが協力的であろうとなかろうと。

それはあなたには関係がない。

あなたが始めるべきだ。

いま、ここで。

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いかがだったでしょうか。

長かったですね。

衝撃的で、「ちょっと待てよ」と感じる内容も多分にあったかもしれません。


でも、僕としては

人生は今という刹那しかなく、

他人がどう評価するとも、自分が信じる道を丁寧に一歩ずつ勧めば良い。

そして、悩ましい時は、誰かの役にたつ行為をする。

それにより、個人的に生き方が大きく変わり

「幸せ感」を多分にもてて過ごせており、

とても腹落ちする内容にあふれておりました。


おそらく2016年の自分は、必死に「他者からの承認」を求めて

他者との競争(勝ち負け)に必死で、

だからこそ、内容が記憶に残ってなかったのかもしれません。

今の生活になって、ブッダやソクラテスやアリストテレスなど

多くの過去の偉人からの学びを得て

生活の実践を変えた中で、

過去に脳に刻まれた(であろう)アドラーからの学びが

改めて浮き彫りになって今に至っているのかもしれません。


これが、アドラー心理学からの学び。

これは、学ぶ以上に実践が大切(難しいものかもしれないけれど)。

変えていくのは、時に時間がかかるけれど、実践を重ねていかねば

うまくもならず、変化も起きない。


それは、ブッダが、苦しみから離れるには

「最後まで油断せず精進しろ」と言ってくれていたように。

アリストテレスが、人生を通しての幸せには

「善き行為の継続」が大切であると語ってくれていたように。


そして、結局は、他者を信頼し他者への貢献により

自分の幸せ感を得られるというアドラーの教えは

「幸せとは」についての人類最長の科学的な研究での結論

「幸せな人生に重要なのは、善き人間関係。以上」にも繋がるものなのだと。


幸せになるためには、過去の偉人も、

最新の科学も、みーんな、同じ方向を指してくれているのですね。


今、ここの刹那を大切に

感謝し、

できうる形で誰かの役にたつべく過ごし

それを継続していくことが大切なのだと思います。


最後までお付き合いくださり、有難うございます。


そして、この本をもう一度自分に蘇らせてくれた

ジョージ、いつも有難う。


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