「囚われを離れ幸せに生きる」 - 龍光ブログ

 「囚われを離れ幸せに生きる」 - 龍光ブログ

アメリカに参っております。

僕をアメリカへお呼びくださったのは、

ロサンゼルス在住の日本人、鶴亀さん。

※その鶴亀さんが始められた「チョッピリ思いやり」の会については先日のブログをご覧ください


鶴亀さんが幼少の時、お父様を第二次大戦で亡くされております。


当時、若い妻や生まれたての自分を残して

潜水艦と共に海に沈んだ"父の想い"。


鶴亀さんは、還暦を迎えられた後、

当時のお父様の想いを馳せるようになり、

戦時においては"敵"だった方々の親族に会いに行かれ

奇跡のような感動的な出来事を体験されていらっしゃいます。

そのストーリーについては、も出版されており、

またブログにてご紹介させてくださいませ。

そして、今日、鶴亀さんが主催くださる

ロサンゼルスにて行わせて頂く講演会のテーマは

「囚われを離れ幸せに生きる」

そこで使うスライドのご紹介です。


ヒトは他の霊長類の中でもとくに"想像力"が進化したことにより

か弱い肉体にも関わらず、他の類人猿を駆逐し、

"共通の概念"としての"集団"や"国家"を作ることで勢力を拡大し

はたまた"貨幣"という、仮想の共通価値を作り出し

文明を育ててきた。

そう、考えております。

名著「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」の受け売りです




そして、その"想像力"は時に

偏った(囚われた)"価値観"を生み出し、

結果、様々な摩擦や紛争をも起こしているのでは。


たとえば

「異教を我々の正しい宗教で救う」といった宗教戦争や、

「誤った思想から人々を解放する」といった資本主義 vs. 共産主義の冷戦など。



僕は決して、戦争や殺し合いを肯定する立場ではありません。

できるだけ、無くなってほしい。

ハエやゴキブリも、虫取り網でできるだけ外に逃がしている毎日です。


そして、どの「主義」や「宗教」が正しいとか間違いだとか

個人の解釈を述べたい訳でもありません。



ただ、それぞれの立場での「正義」や「価値観」があったのだろう。

一方が

「〜教こそが正しい教え」だとか

「〜主義こそが正しい道」など考えるのに対し、

もう一方では

「相手の〜教こそが邪教である」とか

「向こうは〜主義に洗脳されている」など。


どちらかの立場が正しく、どちらかが悪い、

と言いう解釈の前に

ただ事実として「それぞれの立場があった」のだろう。

と観ております。


その、どちらも、一つの方向性へと考えが固まり

「そうではないかもしれない可能性」を受け入れず

「相手の立場」や「相手の考え」も想像することより

自身の正しさ、立場のみへと突き進んでしまった結果

お互いを殺し合う結果につながってしまった。


戦場におり、いま”敵"に、殺されるかも、

"敵"が来て、自分の大切な家族が殺されるかも、

そういった恐怖のさなかでは、

相手の立場など想像できる余裕など

とても持てるものではないのでしょう。

怒りと恐怖が、相手を殺したくなるほど膨らむものなのかもしれません。


憎しみに、憎しみでぶつけても、何ら平和は生まれない。


権力者が戦争を決断する背景においては

お互いの「正義」や「価値観」の

「分かりあえなさ」が、根っこにあったのでは。

それが「戦争」が起きている現象の実態(の一部)なのかもしれません。




それは、自分の主張や価値観ばかりに「囚われ」

相手の主張や価値観の背景を想像してあげる余裕の欠如が

もたらしているのかもしれません。



ただ、僕が感じるのは

「どちらの側においても正義や価値観があり、

その方々にとっての、大切な日々が、家族があった」という事は事実であり、

その、相手の価値観や相手の日常や相手の幸せに

"想いを馳せる"という事の大切さ、

相手となる人の生活や、その家族や、先祖をイメージし

相手の生まれや育った環境、持っている価値観の背景に少しでも

想像をはたらかせることで、

少しでも紛争のリスクを下げることに繋がるのでは。


そう、甘いっちょろくも考えております。


"想いを馳せる"

これは、相手への「リスペクト」とか

「思いやり」というコトバで表現してもよいかもしれません。


ところで、ヒトを含めた霊長類の脳には

他人や他の個体の感情を伴う行為を観て

自分にも似たような感情が生まれる

「ミラーニューロン」という機能があるそうです。



怒っているヒトを見ると

なにやら胸が悪い気分になったり、

楽しそうなヒトを見ると

なんだかコッチまで楽しく感じたり。

そんな経験は多くの人がもっているかもしれません。



誰かが喜んでくれるかもしれない事をすることで、

相手の方が、嬉しそうな姿をするだけで、

自分もなんだか幸せを感じる。




他の人に親切にすれば、自分にも良いことが有る。

「因果応報」だの「利他」だの「人にやさしく」など

道徳や宗教のコトバを振りかざさずとも、

それは、ミラーニューロンのおかげなのか、

ヒトとしてもって生まれた"本能"なのだと思っております。


そして、その「誰かが喜んでもらえるかも」という考えこそが

ホモ・サピエンスである我々が得意とする「想像力」のたまものなのでは。

そう思うのです。


想像力は、欠如させると、他人とのぶつかりにつながるかもしれず

最悪、戦争にも突き進んでしまうかも。

そして、想像力をたくましくさせて

周りの人の心を「思いやる」想像をふくらませると

結果として、周りの人の幸せそうな顔を見る機会につながり

結果、自分も幸せを感じる機会を得ることになるのかも。


でも、そんな「思いやり」(という想像力)は

「訓練」しないと、育たない。

使わないと、へたっていく。

なので。使い続けていくことが、大切では。




当たり前すぎて忘れてしまいがちだけど

日々、刺激を与えないと、筋肉も神経もそだたず、

むしろ、衰えていくもの。


なので、毎日、ちいさくとも、

「ふと」思った時にでも、誰かの気持ちを「想像」するほど

「思いやる」神経回路も育ち、

人を想いやれる能力も育っていくものでは。

逆に、そういう機会が無いほど、「思いやる」力が衰えていくのでは。


苦しみは囚われより生じる。

そして、「囚われ」とは、「こうでなければ」という状態。

それらは、自分の脳内で生み出した、蜃気楼のようなものかも。


運がない。権利がない。お金がない。能力がない。

相手の理解がない

「ない」ものをあげれば、キリなく浮かんでくる。


でも、そう思っているのは自分だけかもしれない。

自分の脳がみせている「まぼろし」なのかもしれない。



でも、ふと落ち着いて深呼吸をしてみると

(特に、身体をリラックスさせて、

息を吐ききって、新鮮な空気を脳や身体に取り入れてみると)


いま、息をできている。

ということは、今死んでない。生きていられている。

そして、これを読めるだけの健康と安全はある。

戦前のさなかでは、おそらくない。


でも、いつだって、事故や事件や災害などで、

自分の命は消えたっておかしくないのが現実。


今、「ある」ことは「あたりまえ」じゃなく

「有ることが難しい」有り難きものかもしれない。


いま、経済や健康の問題

家庭の問題、将来の不安などなど

心はモヤモヤしているかもしれない。

周りの人ばかりが幸せそうで、

自分ばかりが苦しく感じるように思うかもしれない。


でも、それは自分だけの思い込み(想像)かもしれず、

まわりの人だって、それぞれ苦しみはあるのかもしれない。


そんななか幸せになりたい自分はどうすれば?


答えは「想像」にあると思うのです。

他人のことを想像してみる。想ってみる。

つまり、思いやる。リスペクトしてみる。


そうして、何でも小さきことでもよいので

他人にできる、何かをしてみる。

チャットGPT(AIチャット)は「スマイル」は誰でも

いつでもできる「他人への支え」と答えてくれてます。




そうすると、

周りの人の嬉しそうなかおを見ることで、

もしくは、周りの人の幸せを想像してあげるだけで

自分にも、幸せな心がやってくる。

それは、人の本能として持っている能力では。


友達のプレゼントを買ってあげるとき

なんだか幸せな気分を味わっている。

多くの人が、そんな体験があるのでは。


「自分は恵まれてない」

「ゼッタイこうでなければ」

これらは、

自分のアタマが勝手に生み出した、

脳内の蜃気楼なのかもしれない。

いわば、囚われ。

それは、苦しみをもたらしうる。


でも、それは「ただの妄想かも」という想像をしてみて

「そうじゃない考えも有りかも」と離れられると、

心は楽になる。


同じ想像力で、他人を思いやる機会を持つと、

心は幸せになれる。


と、まぁ、そんな内容をお話しさせて頂く予定です。

そろそろ、出発なので、尻切れトンボですが。


今日もお付き合い頂き、有難うございます。






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