「人生の目的は?どうやったら心の底からリラックスできる?」ご質問へのお戻し

          ※このご質問とお戻しの内容は、4月27日に開催させて頂いた

ピアニスト・永田ジョージ、作家・大木亜希子、無職ハゲ小野龍光による
「ご質問コーナー」に頂いたご相談へのお戻しです。

イベント中でお戻しができなかったものに「よろしければブログ上にてお戻しします」とお約束したものとなります。


ご質問----

お名前:にじいろぴーなっつさん

タイトル:「リラックス方法や、人生の目的について」

本文:
1、いつも頭の中で考え事をしていて、無になる時間が全くありません。
瞑想も試してはいますが、瞑想が終わった瞬間から今日の夕飯のことを考えてしまいます。
何も考えにとらわれず心の底からリラックスできる時間が欲しいのですが、何かアドバイスはありますか?

2、人生折り返し地点の40代となり、仕事も落ち着いてきて、子供も少し手が離れ、自由になる時間が前より増えました。「いままで忙しくてできなかったことをやってやろう!」と思って日々いろんなことのいチャレンジしてますが、ふと
「はて、自分はどこに向かってるんだろう…」と迷うことがあります。人生の目的とはずばりなんでしょうか?

お返事----

にじいろぴーなっつさん

こんにちは、龍光です。

先日のイベントからお時間が経ってしまいましたが、お元気でしょうか。
お返事お待たせいたしました。

さて、頂いた2つの質問、繋がっている内容ではと感じております。

どうお戻ししようかなと悩んでおりまして。少しお時間頂きました。


と言いますのも、残念ながら「ずばりコレ!」といったものは、あるような無いような…。

ある方には「コレ」と言えるかもしれず、とある方には「無いかもしれません」とも言えるような…。

川の水をすくおうとしても、

川全体をすくえるわけでもないし、水をすくっても、すぐ手からこぼれていくし

それって「コレが川の水」と言えるとも、言えないとも解釈できるし…。

…なんだか、煙に巻くような言い方で申し訳有りません。



さて、あくまで、ひとつの考え方として、下記を受け流して頂けたらと思うのですが

下記が、このご質問に対して自分の中で流れていった思念として、ご笑覧くださいませ。



「人生の目的」なんて、あるようでなくって、

どんだけエラい人や有名な人や天才的な人が「コレだ」といっても、

それはその人の人生にとってだけのものでしかなくって、

自分は、その人ではない、かけがえのない自分でしかなくって、

自分のコレがほしければ自分で「コレだ!」と決めてしまえばよいのでは。

それが「コレが正しいか」なんて自分も誰も分かるはずがないかもしれなくって、

みんなに共通の「コレ」なんてないかもしれず、

「そんなことは無い!全ての人に共通なゴールはただ死ぬだけなのが真実だ!」と思いたい人はそれでもよくって

「それを探し続けるのが目的って事で今はとりあえずいいじゃん?いつまで"人生"かわかんないんだし」ということもできるかもだし。

それを求め続けるのは、

もしかしたら、空にポストイットで「ここからここまでが空」って貼り付けようとしているようなもの、もどかしく、どうしようもなく、苦しいだけの事かもしれない。

だって、そもそも「人生」ってどこまでが人生?

死ぬまでだとして、それっていつ?

誰も、いつまで続くか、今はわかりようがないものを、どうやって

コレが「人生」って今決められる?

そういった「あるのか無いのか、そもそも意味を求める意味すらないかもしれないのか、よく分からないようなモノ」を探し続けると

どこまでいっても「心は休まらない」「心からのリラックス」は得られないのでは。

そんなことなど、放ったらかしにしてしまって良い。

まず、今の人生に向き合おう。

だって、今ここに自分が感じる自分がいるのは、確かだから。

だったら、ひとまず、そこに集中する。

ただ、今吸ったり吐いたりできている空気の流れや美味しさを鼻の奥で感じて

風の肌寒さや、新緑の若々しさの匂いや、日差しの暖かさや、雨のしとやかさや、

頂ける食物のそれぞれの辿ってきた生命の奇跡や、触れ合う家族や友人やすれ違う方々の

目や表情や、そこにいる存在や…。

そういった「今、ここに、自分が生きて、感じられる」ことに意識を向けてみてみる。

それは、瞑想でも得られる感覚と近しいものかもしれない。

生きている限りは、夕飯何にする?みたいに

これからやらないと行けない先の未来が頭に浮かんでくるものだけど、

未だ来ぬ未来ばかりに意識を囚われることなく

ひとまず今眼の前にある時間に集中する。

夕飯何にする?も、あまり「不確かな状況」に囚われず

ある種えいや!あるものですませてしまえ!などと直観に委ねて、

あとはその瞬間瞬間の作業に想いをこめて向き合う。

なるべく「今、ここ」に、意識を向ける。

それこそが、「不確かなものに囚われず、不安に駆られず、

心おだやかに、リラックスした状態の継続」になるかもしれない。

決して「無」ではないけれど、

あらゆる目の前の出来事、やらないといけないかもしれないこと

不確かかもしれないことに心惑わされず、つねに穏やかな心でいられるかもしれない。

そんな状態を続けていけば、どんな人生になろうとも、

終わった時に「充実した"今"の積み重ねでした!」と満足しやすいかもしれない。

「ほしいと思っていた"人生のなにか意味"みたいなものが掴めずに終わるのか」

といった、苦しみに苛まれずにすむかもしれない。


ながーくくだらぬ落書きとなりましたが、こんな感じで

なーんにもしらないハゲアタマとしての"感覚"を書き連ねてみました。

今はひとまず、生きているのだから、

ただ、今の時間を大切に有り難く、丁寧に向き合って生きていれば

すくなくとも「今という人生の一部」は意味あるものになるのでは。


そんなふうに、感じております。

お役にたてず、ただ長いだけのくだらぬ戯言にお付き合いくださり

有難うございました。

にじいろぴーなっつさんの今日が、おだやかでおもしろきと感じる「今」の時間に溢れますよう。

龍光




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