「いつになったら変われるんだ」- ご質問へのお戻し
※このご質問とお戻しの内容は、4月27日に開催させて頂いた
ピアニスト・永田ジョージ、作家・大木亜希子、無職ハゲ小野龍光による
「人生、詰んでからが本番だった件」イベントにて
「ご質問コーナー」に頂いたご相談へのお戻しです。
イベント中でお戻しができなかったものに「よろしければブログ上にてお戻しします」とお約束したものとなります。
ご質問----
お名前:ささくれさん
タイトル:「ニーバー先生に心折られそうです」
本文:
自己に関して、「変えられるかもしれない」という期待の裏側に、絶えず「いつになったら変われるんだ」「いつ変えられないと決めれば良いんだ」という不安が付きまといます。
受容のタイミングをどう計れば良いか、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
お返事----
ささくれさん
こんにちは、龍光です。
先日のイベントに起こしくださり、またご質問頂き有難うございました。
すっかりお戻しが遅れてしまいました。
先日、別な方のご質問へのお返事
でも、すこし近しい内容に触れさせて頂きましたが、
よろしければそちらも参考頂きつつ、下記お戻しさせてくださいませ。
さて、「ニーバー先生」というのはどなただろうかと
調べてみましたが、ラインホルド・ニーバー氏でしょうか。
恥ずかしながら初耳で、間違いがあったらすみません。
下記の祈りのことばを残されたようですね。
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神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。
アーメン
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ステキなお祈りですね。
自分なりにこの意図も汲み取りつつ、
下記のお戻しを考えてみましたが、あくまで一つの参考意見としてお流し頂けましたら…。
「変えられるかもしれない」期待はあるけど
「変えられないと決めれば良いのか」という不安が生まれるもの、
なのであれば、実は、「どちらでもよいかもしれない」ものなのでは。
もしかしたら、「変えられるのか/変えられないのか」と
その対象のモノ/コトに「意識を囚われている」状態を変えればよいのでは。
つまり、放っておく。
そこへの意識をトイレに流す。というのが良いのでは。
そんなふうに考えております。
我々の生命は、自然の一現象とも言えるかもしれません。
あまたある、様々な他の生命と共に、
生まれ、呼吸し、老いて、やがて土に還る。
水が高いところから低いところへ流れて川になるように。
実は生きるということは、とっても"自然"でシンプルなものだと思います。
なるものは、なる。
ならぬものは、ならぬ。
変わるものは、自ずから然るべくして変わっていく。
それは、我々がどうこう"決めようとする"ことではなく、"起きていく"ものでは。
心が自ずから向かいたいと感じる道があれば、
それが不自然でない限り、身を委ねていれば、
その道に進んでいけるのでは、と思います。
時に自分を新たな道へ、
意思をもって、勇気をもって、
踏み出していくことはできるのかもしれませんが、
それは心が"起きてから"でよいかもしれません。
進もうという心が自然と起き上がってない時は、
まだその時ではないのかもしれません。
そんなふうに、いま悩まれている対象のコトに
「今決めなければならないのか、どうなのか」意識を囚われることから離れて
自然にゆだね、
今ある自分や、周りの生命、それを支える自然に意識を向かわせていけば
ニーバー先生のおっしゃる
"一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ"
られるようになり
苦しみや悩みも自然に流れていくのでは。
そんなふうに考えております。
無責任な内容に聞こえてしまったら申し訳有りません。
ささくれさんの日々におだやかでおもしろき時間が重なりますよう。
龍光