「際限のない経営目標」と「寿命が大きく伸びている現状」について - ご質問へのお戻し

     ※このご質問とお戻しの内容は、4月27日に開催させて頂いた

ピアニスト・永田ジョージ、作家・大木亜希子、無職ハゲ小野龍光による
「ご質問コーナー」に頂いたご相談へのお戻しです。

イベント中でお戻しができなかったものに「よろしければブログ上にてお戻しします」とお約束したものとなります。


ご質問----

お名前:いちろーさん

タイトル:「悩みではないですが龍光さんへ質問です」

本文:
悩みではないですが、龍光さんへ2つ質問です。
①前世では、経営者として際限のない目標に苦しんでいたとのことですが、もし今の価値観で経営した場合、以前とどんな違いがあると思われますか?

②日本人の寿命は今も伸びていますが、今生まれた人の寿命は、医療、食事内容などの生活環境の発展もあり、約半分の方が100歳まで生きるというデータがあると
ある書物で読みました。とはいえ多くの方が80歳くらいまで元気に働けるとは思えず、寿命だけ伸びている状況に大きな違和感を感じています。本来の人の寿命以上に、
医療によって寿命が無理やり大きく伸び過ぎているのではと思います。龍光さんは寿命が大きく伸びている現状をどう見ていますでしょうか。


お返事----

いちろーさん

こんにちは、龍光です。

お返事お待ち頂き、有難うございました。

このご質問はイベント中にお戻しできてなかったかと記憶してますが、

すでに50を迎える歳でだいぶ記憶も衰え

昨日の記憶すらままならないような人間ですので、

すでにお答えできていたら失礼いたしました。




まずは1つ目のご質問へのお戻しです。

と・・・考えてみたのですが、

まず、そもそも「経営」を何ととらえるか、という所から考えてしまいます。

めんどくさい人間ですみません😅。

「経営」はそもそも「お経を営む」という仏教用語でもあるそうですが、

ここでは、自分の前世でのような、会社の経営(= management)、

という趣旨として理解の上でのお戻しです。


そもそも、

「自分のことすら、よく分かっておらず、思う通りにいかないものなのに

なぜ他人のことを、分かったつもりになったり、どうこうできると思ったりするのか」

というのが、根底の価値観です。

managementという言葉は、根っこに「なんとかする」という意味があるのですが、

考えてみると、自分はそもそも「自分自身」すらなんとかできてない。

つまり、マネジメント(経営)できてない。

なので、会社なるものなど、なぜ経営できると思えるのか。

まぁ、そういった答えにはなるのですが・・・・。

これではちょっとツマラナイですよね。

なので、もし、会社の経営を携わる事になるならば、と、あえて考えてみる・・・。

そうすると今度は「会社」とは、「仕事」とはなにか、を考えはじめてしまう。


自分の価値観では、「仕事」は、「誰かが喜ぶことをする」と考えてます。

そこでは、必ずしも貨幣など介在しなくても良い。

「会社」はもともと「一緒にパンを食べる」ことだそうで、

そうすると「一緒に誰かが喜ぶことをする集まり」が会社と言えるでしょうか。

それを「なんとかする」(経営)するとしたら。。。

まずは、何か困っていたり、喜びを感じたいけど感じられない方を見つけることから始めるでしょうか。

そして、お困りの方に、何か役に立てそうなことを考えるでしょうか。

なにか、お手伝いしてあげたり、なにかの考えを助けてあげたり。

ありゃ、なんだか、今の生活でやらせて頂いているような事しか出てきませんが。。。

でも、たぶんそんな活動を集団でするのが自分の選択になるのだろうと思います。


質問で頂いた「際限のない目標に苦しんでいた」についてはどうでしょうか。

前世では、売上のような貨幣の量、といった「数字」を頼りにしてしまい、

永遠に終わらない目標がうまれることでの苦しみや、

数字を追いかけることで本来の目的だった「お客さんに喜んでもらう」ことを無理に作ろうとしたことで苦しんだので、

数字を膨らませること、つまり売上の拡大を前提にする行動は避けるでしょう。

つまり。売上は世の情勢や自然の結果あがれば上がるし、上がらないなら、そういうものだし。

そんな価値観でしょうか。

数字はただの数字ですから。

「もっと」と規模を目指すほどに、搾取が生まれがちになるので。

他人から、もしくは自然からの搾取が。


なので、数字の膨張を是とせずに、ただ誰かが喜ぶことをする。

それは、縁あって出会えた方々に、自分の周りにあるもので、可能な範囲で「有難う」を言ってもらえそうな事をすることでしょうか。

そんな感じでしょうか。とてもツマラナイものに見えるかもしれませんが、

あるもので、できることを考えていくのは、とてもオモシロイことでもあり

なにより、知恵や、内面の成長を楽しめると感じております。数字には見えにくいのですが。

ツマラナイお答えで失礼いたしました。



そして2つめのご質問。

「寿命が大きく伸びている現状をどう見て」いるか。

これも、1つめの、際限なき「もっと」のお話と共通していますが、

こちらは、大いに悩ましいですね。

なぜなら、個人の問題だけではなく、集団の問題があるからです。


集団としての高齢化の維持にはとてつもなくコストがかかる。

これは今の日本の経営(政治)の最大の苦しみかもしれません。

どこかで、線引きをしないと、若い人たちの人生では、

高齢者を支える役割ばかりが増えてしまう(すでにその傾向は出ている)。


でも、一方で個人としては

健康な身体を取り戻せるかもしれない、あるいは維持できるかもしれないなら、

可能性があれのなら、できればそれを手にしたいもの。

痛みや苦しみが生まれており、それを治せる可能性があるのなら、治したい。

そして、未来をもうすこし見れるのなら、見てみたい。

そう願うのは、年齢に関係なく、誰もが持ちうる純粋な願いではないでしょうか。


自由にうごけなく、意識も混濁しているのに、さまざまな管に繋がれてでも生き延びたい。

そんな人は実際には少ないかもしれません。

ですが、目が見えにくくなったり、耳が聞こえなくなってきたり

足腰が痛みを伴い自由に歩けなくなったり、

体内に痛みがでてきたり、

そうしたら、お医者さんに相談して、治療という可能性にすがりたくなるもの。


高齢化する社会に対しては不満や思う所がそれぞれあっても、

自分の両親やおじいちゃんおばあちゃん、もしくは自分自身が

「お腹がいたくって・・・」と苦しんでいたら、病院に行かせたい/行きたいもの。

このスイッチを切ったら、目の前で寝ている、自分の親や家族の生命が止まると言われたら

もうすこし可能性をさぐりたくなり、ひとまずスイッチは切らずにいたいもの。


そういった「願い」の集まりが、集団としての、

高齢化によるコスト増につながっているのかもしれません。

もちろん、みながブッダまでいかなくとも

「もっと」の欲を流せば、コストは大きく下がるのでしょうが、

人はそんなに簡単な生きものではないと思うのです。


寿命を「無理やり大きく伸ばす」と聴けば、

多くの方が「よくない」と感じるものかもしれません。

けれど、「健康でいたいか」と聴かれれば、多くの方が「はい」と答えるものではないでしょうか。


実際にはほぼ使わないかもしれない健康器具を買ったり

さまざまな健康食品を買って

元気でいたいなぁとささやかに願いつつ、

家でテレビの前で大半の時間を過ごしていたとして、

それは「無理に長く生きようとしている」とは言い切れるものではないのでは。


個人としては、たとえば、「がんになっても手術や治療はしない!」とか

「老人施設には入らぬ」とか、それぞれが自分で「線引き」をできるものでしょうが

集団としての「線引き」は、国がしなければならない。

どう線引きしても不満は避けられないでしょう。

まさに政治として、つまり我々個人個人も考えるべきこととして、

悩ましい問題に向き合っているのだと思います。

もちろん、すぐにできるであろう、医療報酬や薬の量の方針など、改善は可能かもしれません。

とはいえ、まず個人ができることは、自分のことだと思います。

政治が気に食わなければ、政治を変えたり、住む国を変えることもできるかもしれませんが、

国や政治が変わらなくても、自分の中での「線引き」を変えて、

生きていくことはほとんどの人にとって、いつでも可能である。


まずは自分が考える価値観や生き方を実践していく。

その生き様に価値を感じる方がいれば、それを踏襲してゆく人も出てくるでしょう。

それが広がっていくこともあるかもしれません。


政治に対して具体的に働きかけること(選挙など)は大切と思いますが、

まずは自分自身の行動や生き方を通して、自分の価値観を実践していくことは

より大切だと思っています。


なんだか、はっきりしない答えになっていたら申し訳ないのですが、

生き様は、口で言うのではなく、これからで示していくしかできないので

自分の場合は、「今はただ、死ぬまで生きてみます」という事くらいしかお伝えできません。



以下は蛇足であり、書くか悩んだのですが、せっかくなので書いてみます。


実は、ここ最近で右目だけ急に視界がぼやけてきており、

「老眼進んだなー」と思っていました。


ですが、老眼鏡を使ってもなんだかクリアにならず、

こういったメッセージを書くのにも影響を感じるレベルになり

眼科に行ったほうがいいかな?でも自分にお金を使うのはどうなのか。

などと考えていた所でした。


そんな中、このご質問に向き合いながら、

「延命などなくきっぱり死にたい」と考えている自分も

「とはいえ、ぼやけてきた視界をクリアにできるなら、なんとかしたいなぁ」という想いが生まれており

高齢化に伴うコスト増は、こういった

ささやかな望みの積み重ねであるのかも、と実感を得ることができました。

自分ごとになってみると、なかなか「線引き」は難しいものですね。

貴重な気づきを有難うございます。精進します。

悩ましい問題は続きますが

そんなふうに、ともに、考え、感じ、実践しながら、未来へと歩んでいきましょう。

龍光



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