「ストレスから逃れる方法を知りたいです」- ご質問へのお戻し

       ※このご質問とお戻しの内容は、4月27日に開催させて頂いた

ピアニスト・永田ジョージ、作家・大木亜希子、無職ハゲ小野龍光による
「ご質問コーナー」に頂いたご相談へのお戻しです。

イベント中でお戻しができなかったものに「よろしければブログ上にてお戻しします」とお約束したものとなります。


ご質問----

お名前:くるりんぱさん

タイトル: 「ストレスから逃れる方法を知りたいです」

本文:
世帯数の少ないマンションを購入して都内に住んでいますが、住人に不快感を抱いておりストレスで快適に暮らせません。
挨拶は無視、爆音で聴こえてくる音楽、夜中から早朝にかけての騒音、共有スペースを私用に使う、自分たちがよければ他の住戸は
どうでもいい的な行動が多く辟易しています。(音に関しては管理会社が対応してくれると思いますが生活態度に関しては無理です)
これが現代の普通の住民の付き合いと割り切るべきなのか、自分たちも含めてその程度の民度の人たちの集合体と思うべきなのか、
賃貸ではないのですぐに引っ越すという選択ができないので悩ましいです。挨拶も無視されるので、こちらからもしなくなってしまいました。
他人は変えられない、変えられるのは自分というのはその通りだと思うのですが、この先どのように暮らしていけばいいのかアドバイスを
いただきたいです。ずっとストレスを感じながら暮らしていくのもつらいのですが、感じない生き方はあるのでしょうか。

お返事----

くるりんぱさん

こんにちは、龍光です。
お返事お待たせいたしました。

昨夜はよく眠られましたでしょうか。

早朝にかけての騒音、どのようなものか自分では分かりかねますが

眠りが妨げられるほどのものだとすると、身体の疲れもとれず

心もおだやかになりにくいものですよね。


我が家のネ申(妻)からは

「オマエがバカみたいに早く起きるせいで、

イヌが早朝からテンションが高くなるのが習慣化して

オマエが留守の時に、早朝にイヌが大騒ぎして起こされて、マジ迷惑だ」

と大変有難い御言葉を頂く日々です。

今朝も息を殺してイヌを目覚めさせないように瞑想しておりましたが、

気がつけばイヌも起きてしまったようで

瞑想中のハゲアタマをペロペロと舐められておりました。


悩ましいご質問を頂いているのに、能天気なくだらない余計なお話からスタートし

大変失礼いたしました。


くるりんぱさんも書いていらっしゃるとおり、

他人は自分ではない存在なので、他人をどうこうできるものではない。

その通りですよね。

自分自身ですら、時に自分が思う通りになどなれないものですので、

そりゃそうですよね。


さて、これからお戻しする内容は、あまりお役にたてる内容ではないかもしれません。

ただ、アタマでっかちなだけの内容、とでもいいますか。。。

「オマエは私の苦しい状況なんか何もわかっちゃいない」

とご気分を悪くされるかもしれません。

なのですが、せっかくご質問くださったご縁ですので

自分なりにお戻しさせてくださいませ。


まず、最初にお伝えしたいのは、

「大丈夫ですよ」という事なのです。

たしかに、挨拶しても返してくれない、

共有スペースを私用に使う、

そういった行為をすぐ側で見続けるのは、不快になってしまうものでしょう。

ですが、幸いな事に、紛争や災害などで物理的な移動できない状態ではないかぎり、

その場を離れることは、実は可能なのではないでしょうか。

持ち家といっても、売却したり、貸出して別な場所に引っ越すという事だって

不可能ではないかもしれません。


動物は植物と違って、身の危険を感じたり、

不快な状況が起きた時「走って逃げる」という能力があります。

我々だって、動物として、不快な時には、離れることができる。


もちろん、経済的な負担や時間がかかるなど、あるのですが、

はたして「今の環境でストレスを感じ続けながらずっと暮らす」のがいいのか

「多少の時間や経済コストを払ってでも、不快を感じる日常から離れる」のがいいのか。


引っ越すまでのことではない、と感じられるのでしたら、

実は、その住人の「態度」も、心持ちや、解釈の仕方次第で

そこまで「ストレス」にならずに済むものなのかもしれません。



さて、ちょっと話題は変わるのですが、

これまで、誰かを好きになったり、何かのファンになったりというご経験はあるでしょうか。

そして、その対象への好意が、そうでもなくなったというご経験。

「なんで、あんなに好意を持っていたのだろう」という感覚。

そんな体験はお持ちではないかもしれないのですが、

いわゆる「アバタもエクボ」というやつでして、

好意をもった対象は、どんなものでも好意をもって感じることができる、というものです。

逆では、「ボウズ憎けりゃ袈裟まで憎い」ってのもありますね。

不快感を感じる対象は、どんなものでも不快感を感じさせる。


つまりは、同じ現象を見ても、その現象を、どういった心持ちで眺めるかで

感じ方が違ってくる、というお話です。



「爆音」に感じる音を、心持ち次第で、騒音や爆音と思わずに流せ、

などと申し上げたい訳では有りません。

物理的に大きな音は、身体にも響き、耳にも悪いものです。

ですが、肉体的にも影響があるであろう騒音レベルなのでしたら

法律でも守られており、

直接お願いしても納まらない場合は、警察に頼る形で、

避けることもできるかもしれません。


一方で、生活態度といったものは、

「なぜ、ああいった態度をするのか」という心と共に見るかぎりは

イライラを感じさせるものにしかならない。



自分の道徳観や倫理観と違う態度だ、と見立てることで

「あのようにすべきでない」「あれは許せない」などと感じ、

ストレス、イライラ、不快感を生み出すから。


「そういう人もいるよね」「態度はよく見えないけれど、実はいい人かもしれないよね」

「挨拶しないけど、考え事に没頭してたり、めちゃ内気なだけかもしれないよね」

などなど、もし、「あるべき姿ではない」見立てから離れることができれば、

もしかしたら、そこまで「イライラ」を生む対象としては

感じられなくなるかもしれません。

「自分も、気づいてないところで共有スペースを使ってしまっていたことも、あったかもね」

「住みたい場所に住めるようになった嬉しさで、ついついいろいろ物が増えて、共有スペースまではみ出しちゃったのかもね」

などなど。


つまり「有るべき姿でないと見える」ストレスは

御自身の中での「こうあるべし」という価値観や正義感、道徳観が生み出している、

とも言えるのです。

それは、実は、自分だけの価値観や基準を、周りにも押し付けようとしてしまっているのかもしれない。

もちろん、法律などで、国として定める「超えてはいけない基準」もありますが、

人によってそれぞれの基準があるもの。

価値観や正義感、道徳観もそれぞれ。

いろんな生き方、考え方、態度の人だっているし、

気分によるだけかもしれないし、

見た目だけでは判断できず、打ち解けてみたら、とてもいい人ということもあるかもしれない。

でも、時に人は、「あの人は、こういう人だから」と決めつけてしまって、

そのフィルターだけでその人を判断してしまいがちになる。

もしかしたら、違う面もあるかもしれないことにも、見ようとしなくなるものかもしれない。

「袈裟着てるヤツらは、全員どうせ生臭ボウズだろうが」

というように。でも実際には、ボウズにもいろいろいるのでしょうが。

そう考えております。



ちょっとまた脱線して、

つい先日滞在した、ミャンマーの僧院のお話をさせてくださいませ。

ミャンマーは世界でも最も厳格に仏教が残されている地と聞いて

そのミャンマーでも、最も厳しいとされる僧院に滞在させて頂きました。

そこに初めて訪れた時、斜め向かいの部屋に、自分より少し年配の

僧侶がいらっしゃいました。ここでは「おじさん僧侶」と呼ばせてくださいませ。


その、おじさん僧侶に初めてお会いしたさい、

これからお世話になりますという気持ちで

頭をさげて挨拶しました。

が、そのおじさん僧侶は、上半身裸の姿で

腰に手をあてて、ただこちらをギョロリと不審げに見ただけでした。

しかも、なんとタバコを吸ってらっしゃいました。


「あれw タバコって戒律違反なんじゃw ここ厳格な場所じゃなかったっけ」

そう、アタマによりぎりましたが、

まぁ、いろいろな方がいるのだろうと。

その後、合う度に、こちらは微笑んで頭を下げるのですが、

向こうは、いつもギョロリとこちらを見るだけ。表情も変わりません。

タバコもしょっちゅう吸っていらっしゃいます。

まぁ、でも、僧院では、笑顔や会話をほとんどせずに修業に励む方が多いので

挨拶もしないのが当たり前なのかもしれない。

少し前まで、スマホの利用も禁止されていたけど、最近は解釈が変わって

スマホOKになったので、タバコも解釈しだいなのかもしれない。

自分の袈裟の色がミャンマーの僧侶の色と少し違うので、

それでギョロリと見られているだけなのかもしれない。

そんな風に、なるべく先入観を持たずに過ごしておりました。


そうして、数日間がたち、気がついたのですが

そのおじさん僧侶は、朝4時前の、まだ真っ暗な中から

一人で外の掃き掃除をされていらっしゃったのです。

他の僧侶はまだ寝ている時間です。

その姿に、思わず合掌してアタマをさげました。

そしたら、おじさん、すごくニヤって、笑顔を見せてくれたのです。

それまで、頭を下げて挨拶しても、表情を変えずに何の反応もなかったのですが。

さらに、僕が托鉢に出かけようとすると、急に僕を引き止めて

しかめ面をしながら、僕の袈裟をいろいろといじりはじめました。

托鉢で外に出かける時は、袈裟も正装の着方をするのですが、

僕の着方が不十分だったのでしょう。

おじさん僧侶は、僕の袈裟の着方を、整えようとしてくださっているのでした。

さりげないおじさん僧侶の気遣いに、感動いたしました。

タバコは吸いながらでいらっしゃいましたがw。


結局、僕が僧院に滞在していた間、もっとも親切に細やかな気遣いをしてくださったのが

そのおじさん僧侶でした。

普段はブスっと無表情で、タバコを吸っていらっしゃいましたが。

あらためて、人は見かけで判断してはいけないのだと、感じた次第です。

長くなりました。

たまたま、その方は、良い方だっただけで、

時に、どう接しても、切ない対応や態度の方もいらっしゃるのが現実でしょう。

時に、悪意を示したり威圧的な態度で迫ってくる方もいらっしゃるでしょう。

でも、本当に困って不快なら、逃げれば良い。離れることはできる。

そして、法律もある程度は守ってくれる。

ただ、そういった方々にも、育った環境や、抱える家族の悩みや、

社会からの視線のストレスや、様々な背景があるのだろうし

表面だけでは見えない内なるものがあるのだろう。

見た目だけで色眼鏡を掛けて見てしまうと、

相手だって「どうせ、こっちのこと、見下してるんだろ」って感じて

こちらに善き態度など見せにくくなるかもしれない。

そんな風に思うのです。


長いだけで中身のないお話になってしまいましたね。

くるりんぱさんの不快な気持ちに、なんら役にたたない能天気話だったかもしれません。

でも、いつだって、離れることだって可能ですし

もしかしたら、見立て次第で、その住人への感じ方も変わるかもしれない。

そんな風に、少しでもくるりんぱさんの日々に、

おだやかさを感じ、様々な不快に感じることも「見ようによっては、おもしろいことでもあるじゃん」と感じる時間が重なりますよう。

勝手ながらお祈りさせてくださいませ。

龍光

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