「仏教」は、自ら考え実践していくもの - 日常で役立つ やさしいブッダの教え3
ここからいよいよ、ブッダの教えに入っていきましょう。
冒頭からズッコケないで頂きたいのですが、ある種シビアに聞こえる内容からスタートです。
ブッダの教えは、冒頭でも紹介したブッダの言葉
「他を頼らず、自己を頼りにしなさい」
に代表されるように、自ら努力し、考え、実践していくなかで
「迷いや苦悩に囚われず、心の平安を手に入れる考え方、生き方 」を得ていくもの。
そう、理解しております。
「なんだよ、ホトケ様って、僕らを救ってくれる存在じゃないの?」
仏教では、他のメジャーな宗教である、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教で説かれているような「世界を創造する『神』」の存在については説かれていません。
仏教は、自分で悩み考えた末に「心の平安の得方」を得た、ブッダという生身の一人間からの「教え」を土台としており、
人間を創った創造主である『神』より人間に授けられた「教え」を土台とするキリスト教やイスラム教とは、土台に大きな違いがあります。
どちらが良いとか悪いとかではなく、人間という存在についての立場が違うのだ、と考えております。
※「世界を創造する『神』」の存在を前提とするキリスト教やイスラム教では、人間は、自らは迷うもので、『神』に導いてもらってこそ救われるのだ、という立場です。
一方、仏教では、人間は自らの努力で迷いから解放されうるのだ、という立場です。
どちらが良いとか悪いとかではなく、解釈の問題と理解しています。
前者:人間のように、すぐ怠け、惑いやすい存在は、自分でなんとかしようと思うから惑いが深まるワケで、心からの『神』への信仰を持てば、よき生き方へと『神』に導いてもらえる。
後者:人間は、怠けて惑いがちな存在だけれど、気をつけて自身を律していけば、よき行き方へと自ら進んで行ける。 個人的には、どちらの主張も一理あり、どのメジャーな宗教も「心の平安」を目指す視点は共有しており、それぞれの方が自分にとって、より「平安」を得やすいものを信じれば良い(もしくは何も信じずともよい)と考えております。
さて、お話しは仏教に戻りますが、つまるところ、ブッダは「心の平安」は、『神』や他人などに頼らず、自分の努力で手にしなさい、という教えです。
何かを信じれば救われるのではなく、救いを得たいなら、自らガンバレ。と。
※なお、日本でメジャーな仏教宗派である浄土宗・浄土真宗においては、阿弥陀様によってこそ人間は極楽浄土へと連れて行かれ救われる、という解釈があり、「他を頼らず、自己を頼る」とする初期のブッダの教えに違和感を感じる方もいるかもしれません。
浄土宗・浄土真宗は、ブッダがいた時代より500年以上経ってから書かれたと考えられている経典をベースにしており、ブッダ自身が直接語ったとされる教えが色濃く残るとされる、初期の経典とは大きく違いがあります。
ですが、浄土宗・浄土真宗においても、初期のブッダの教えの要素は大いに含まれており、広く解釈が可能である仏教ならでは生まれた有難い教えだと個人的には理解しております。
ここでは、あくまで、ブッダ自身が語ったであろう内容に近い、初期仏教の教えにフォーカスをしております。
ですので、お寺などで「ホトケさま〜(=ブッダ)」と何かを頼むのは、初期のブッダの教えの視点からは「いやいや、自分でガンバレって教えたでしょ」とツッコミを頂くかもしれず、本来でしたら「自分は頑張りますよ〜、見ていて下さいホトケさま〜」と宣言するのが正しい姿かもしれません。
まぁ、ですが、そういった「お祈り」も、自己に向き合い、自身を新たな気持ちにしていったり、誰かのために想いをはせたりするためのキッカケとして、とても大切なもの。そう考えております。
スミマセン、蛇足でした。
このあたりの説明は、ご興味があれば「(補足)仏教って、ややこしいモノなのじゃないの?」をご参考にください。
繰り返しですが、これから見ていくブッダの教えは、自分の努力が前提とされるもので、
ぱっと見、とても地味で、当たり前にも感じるものかもしれません。
今、なにか苦しんでいる方や、悩まれている方が、読んですぐに平安な心になるとは限らず、その後の日常で、教えを実践し続けていくことで悩みや迷いから離れられていくもの。
そう考えています。
でも、大丈夫ですよ。
これまでの2500年でもそうだったと思いますし、僕自身や僕の周りでも、たくさんの方が、この教えによって、心の平安を手にすることができている。
これを見ている方にとっても、それは可能である。
そう勝手ながら、信じております。
ということで、その前提で、お付き合い頂けたら、幸いです。
次は「ブッダの遺言に生きるヒントが詰まっている」です。