苦しみは自身が生んでおり、自身で流していける - 日常で役立つやさしいブッダの教え6

 さて、いよいよ、

「迷いや苦悩に囚われず、心の平安を手に入れる考え方、生き方 」

の具体的な中身に入っていきましょう。



その冒頭は「苦しみ」についてです。



苦しみに囚われにくくなるために、

まずは「苦しみの生まれ、消える仕組み」

を理解することが大切だと思います。



その仕組とは、


苦しみは自身が生んでおり、自身で流していける


※スッタニパータ168-175句など


というものです。



「いやいや、自然や経済や政治とか、周りの人とか、

自分以外からだって、苦しみの原因が生まれているでしょう」


そう感じるかもしれませんが、

「何が苦しみの元か」を解釈しているのは、

結局あくまで自分自身なのでは。



ですので、自身の心持ち次第(心の状態次第)で、

目に映るもの、耳に聞こえるもの、など

五官(眼・耳・鼻・舌・身)から入力される信号に対し、

「苦しい」という解釈をするのも自身だし、

「ただ、そういうもの」として苦しまずに、ただ流す事もできる。



もう少し詳しく見ていきましょう。



「苦しみ」(モヤモヤ、不安、怒り、嫉妬などなど不快に感じる様々な負の感情)。


その原因は「思う通りにならない」と感じることから生まれる。


そう理解しています。



「思う通りにならない」 というのは、

「こうあってほしい/こうありたい」「こうあるべき」という期待や希望とは違う、

と感じる時に起こる感情。



そもそも世の中は、自然の変化や、大勢の人による大きな流れ(経済や政治など)によって、「個人が望む姿と違う」状況は、簡単に起こりうるのでは。


自分自身に対してだって「思う通りにならない」ことが沢山あるのでは。



若く健康でいたくても、老いは止められない(遅くさせる事はできても)し、

いつどんな病気になるかは誰にもワカラナイ。


今はまだ死ねないと思っても、生命はいつどこで終わるか分からない。


イヤな奴と一緒に働いたり暮らさなくてはならなかったり、


大切な人やペットと別れが来ることもあったり、


なんとしても手に入れたい立場やモノが手に入らずに居続けることもある。


資産も地位も名声も、いずれ衰えていくし、何かの弾みで簡単に吹っ飛ぶこともある。



生きている限りは、大小様々に

「思う通りにならない」事にあふれているものではないでしょうか。


そして、それが「苦しみ」の原因になる。



なんだか、暗い話しばかりに聞こえてスミマセン😅。


「苦しみの仕組み」が理解できてこそ、流しやすくなるものなので、

もうちょっと続けさせてくださいませ。



それら「思う通りにならない」事象に対して、


「自然のことだし、他人は他人だし、

自分の身体も自然の摂理の一部だし…。

まー、しゃーない。そういうもんか」


などと割り切れれば、苦しみは流しやすく、苦しみにくい。



それを「いや、なんとしてもこれは譲れない!」と囚われるほどに、

苦しくなるもの。


それが「執著」ともいうもの。

「こうあってほしい」というささやかな願いや希望だって、

時に「思う通りにならない」時だってあるものだ。


そう、手放す心の準備ができていれば、苦しみを流しやすい。



でも、

「こうあるべきだ」としがみつくと、

「思う通りにならなさ」が強まり、苦しみが増す。



ただ、それだけの事なのです。




なのですが、


こっちは真剣なのに、なんでちゃんと聞いてくれないんだ(そっちも真剣になるべきだろ)。


なんで、あんな馬鹿げた行動をするんだ。(こうあるのが正しい姿であるべきだ)


どうして、こんなヒドい事をするのだろう。(人としてそんな事はすべきでないはずだ)


などなど、人は自分にとっての「こうあるべき」を相手にも求め、

思う通りにならなく苦しむケースは多々あるのでは。


なかなか、「思う通りにならない時だってある」と割り切りにくい事もあるもの。



でも、考えてみましょう。


「こうあるべき」姿は、

人や環境によって、様々に変化するものではないでしょうか。


周りのヒトだって

それぞれのヒトたちの、受けてきた教育、付き合う人たち、その時の体調や心境によって

感情や考えも変化していくことでしょう。


それが、自分と違って見えても、当然なものではないでしょうか。



自分は真剣なのに話しを聞いてくれない人は、別の事に真剣になっていて自分の話しに集中しにくい状況だっただけなのかもしれません。


自分にとっては馬鹿げたと感じる行為も、その人にとっては、とても大切な信念に基づく行為なのかもしれません。


自分にとってはヒドいと感じる事でも、時代や文化やそれまでの経験や、その時に置かれた状況に応じて、人によっては、何ら通常の事なのかもしれません。



例えば、殺人、というもの。


だれだって、突然殺されたくはないはず。


殺すのは悪である、というのは多くの主要な宗教でも共通しているし、

恐らくほとんどの国において法律でも罰せられている行為だと思います。


が、にも関わらず、

それぞれの「正義」や「信念」をぶつけて殺し合いをしているのが実体。


日本人だって、かつて、経済的な困窮や当時の思想から

「お国のため」「自分の家族を護るため」と、

戦争に行って「敵」と呼ばれた人々を殺しに行くのが正義とされ、

それを「バンザイ」と送り出していた…。


つい80年ほど前は、本気でそう思っていた人もいたでしょうし、

本心ではないものの世論に迎合せざるを得ずにそう流されていた人もいたでしょう。

いずれにせよ、現代の日本とは大きく違う価値観が「当たり前」とされていた時代もあった。


それらが良い、悪い、という解釈の議論をしたいのではなく、

ただ、あらゆる考え/価値観人それぞれだし、

それも変化していくもの、と思います。



でも、自身なりの「こうあるべき」「こうありたい」は生まれてくるもの。

それとは違う考えのヒトにも、出会うもの。

そうなってくれない自然や社会の状況も起こりうるもの。

だから、「思う通りでない」と感じる状態も、起きて当然なこと。



それでも、「こうあってほしい」「自分はこうあるべき」と囚われるから、

「思う通りにならない」と感じる度合いも強まり、苦しみが膨らむ。


「そうならない時もあるものだよね」と捉えられると、

囚われを手放し、苦しみを流しやすい。




「愛する人とずっといたい。自分が愛すると同様に自分を愛してほしい。」


でも、もし失ってしまったら?

この愛が永遠に続くのか確かめたい…。


本当に相手は自分と同じだけ愛してくれているの?

どうしても確かめたい…。


愛、はやっかいですね。

上に述べた「こうあってほしい」望みも、

当然、「思う通りにならない」


それ故に苦しむワケです。



「こうあるべき」「こうあってほしい」と念じたり、願うのは、

あくまで「自分」という意識から生まれてきた思念。


そして、それは変化し続けているもの。



自分を取り囲む、自然や他人(社会)も、

自分の意識や感情とは関係なく、独自の論理で変化し続けていくもの。


だから、どこまでいっても「思う通り」が続くことは起きない。


つまり、生きている限り「思う通りにならない」ことは常に起こりうる。



それは雨が降れば川が流れ海に注がれ、

太陽が出れば水が蒸発し雲になり雨を降らしていくように。


ただ、そういうものでしかない。



そこに、「こうあってほしい」「こうあるべき」と囚われるから、

「思う通りにならない」感覚がつよまり、苦しみが膨らむ。



「そうならない事もあるもの」と、時に希望や望みを手放せる心持ちがあると、

苦しみを流していくことができる。



これが、「苦しみは自身が生んでおり、自身で流していける」仕組み。


そう、考えております。


少し、説明がしつこかったらスミマセン😅



生きている限り「思う通りにならない」ことは常に起こりうる、って、

悲しく聞こえちゃうのですが、

それは、「こうあってほしい」という望みや希望が溢れているから。


そう、勝手ながら思っております。



念のためですが、苦しまないためには、

「こうあるべき」「こうあってほしい」と願わないほうがいい、

という事ではありません。



願いや希望が、人を育て、生きるエネルギーを生み出してくれる。


それは、とても大切なものと思っています。



ただ、自然の摂理として、自身の願いや希望も変化し続けるものである。


自分だけで世界は動いているワケではなく、

自然や他の人や集団のさまざまな条件下によって世界は刻一刻と変化している。


だから、自分だけが「思う通り」で有り続けることなど、起こらない。



そう理解しておくことが、苦しみを離しやすい心持ちを育てるのに大切では。


という趣旨です。



とはいえ、アタマでわかっても、なかなか、心は割り切れないもの。



どういう風に生活していると、

「こうありたい」「こうあるべき」と囚われにくく、流しやすくなるのか。



そのさらに実践的な内容を次から見ていきましょう。



次は「
苦しみから離れるために、日々できること」です

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