ブッダの思想の土台 - 日常で役立つやさしいブッダの教え5

さて、ゴールである

迷いや苦悩に囚われず、心の平安を手に入れる考え方、生き方


の具体的な中身を支える、ブッダの思想の土台についてお話しさせてくださいませ。


すぐに、具体的な中身に入りたいかもしれませんが、それらを理解していくにおいて、ここの土台の理解がとても大切だと考えております。


すこし難しい内容に聞こえるかもしれませんが、ここを抜ければ、とても現実的でシンプルな内容に入れます。


ここが峠、としてお付き合い下さいませ。



さて、ブッダの思想の土台は、ブッダのラストメッセージにあった


もろもろの事象は変化し過ぎ去る


そして、それが故に実は


もろもろの事象には確たる実体などない

※スッタニパータ364, 477, 1119句、ダンマパダ20章279句


という考え。



まず最初に、「川」を例に説明させてくださいませ。



「川」は、山など高いところから海へと流れていく、水の流れ。


川を形作る「水」は常に、変化し流れている。


ぱっと見は形が変わらぬように見える川でも、

その水量、水温、水流の速さの流れ、そこで運ばれる様々な生物や石や木などなど、

その時の自然環境の条件下で、実は状態は刻一刻変化している。


直前の状態は過ぎ去り、新たな状態になり… それもすぐに過ぎ去り…


と、常に「変化し過ぎ去る」もの。



川全体だって、晴天で水量が減り細くなったり、大雨で幅が広がったり、

山崩れで埋もれて大きく流れが変わったり、最悪火山や地震や干ばつなどで川全体が消えたり…。


その都度の環境の条件下で、つねに刻々と状態が「変化し過ぎ去る」もの。


これらは当たり前にも聞こえる、物理的な原因と結果の連続の現象のお話し。



ある状況Aでの様々な条件をもと(原因)に、

次の現象が引き起こされ、

次の状況B(結果)が生まれる。


その状況Bでの様々な条件をもと(原因)に、

また次の現象が引き起こされ、

さらに次の状況C(結果)が生まれる。


川も、そのような原因-結果が連鎖しながら、ただ次々と変化し過ぎ去るもの。


これは、川だけではなく「もろもろの事象」でも起きていること。


※初期仏教でも「これ(A)があるとき、それ(B)が起こる」といった表現で、因果(原因と結果)の考えが説かれてます。ちなみに「縁起」の縁というのは、結果Bに対する、間接的な原因A’、つまり結果Bを起こす条件(原因)のひとつのこと。

たとえば自然界で起きている無数の現象の中で、結果的に川の状態(結果)を起こす間接的な要因になっている事柄を、川にとっての「縁」と呼びます。

当然、川にとっての「縁」も無数ともいえるほど存在しうる。

その結果に大きく寄与した「縁」もあれば、かろうじて影響を及ぼしたものも。

いずれにせよ、結果に対するなにかしらの間接的な要因(条件のひとつ)となっているものを、等しく「縁」と呼ぶ。

「縁があった」という表現は、まさにこのこと。

その「縁」(間接要因)と、その条件下で「起きた」結果との相互の関係を「縁起」と呼びます。

これはイコール「空」の概念につながるのですが、そのお話しだけで大量のブログになりそうなので、一旦ここではスキップします。(あくまで龍光のあさははかな理解です)



これが、ブッダの説く「もろもろの事象は変化し過ぎ去る」の概念です。


※「諸行無常」とも表現されてますね。

諸々(もろもろ)の事象は常なるもの(不変なもの)では無い。つまり、変化し過ぎ去るものである。



「もろもろの事象」というのは、世の中の全てのモノ・コト(現象)。



ヒトの肉体や意識、世界のあらゆるモノ/コト(現象)も、「変化し過ぎ去る」もの。



本当でしょうか?金やダイヤモンドも、過ぎ去るのでしょうか?


そう思います。

火山の噴火などで、金もダイヤを形や状態が変化し、

今の状況も過ぎ去り違う姿になることもあるでしょう。


そもそも、地球や太陽だって、長い年月で見れば、

変化し続け、いずれ星としての寿命を向かえ、過ぎ去るもの。


自分の身体や意識だって「変化し過ぎ去る」もの。


日常では変化は見えにくくても、着実に日々「老い」は進んでいるもの。


そして、いつかはワカラナイけど「死」へと向かい、常に「過ぎ去る」瞬間が続いている。



僕らの意識だって、日々、様々な刺激を受けて、

常に思考の中身も変化し続けており(脳内で活性化する神経細胞の電位も刻々と変わり続け)、長い目で見ると歳とともに脳の神経も減っていき、ボケていくかもしれず、変化していくもの。



つまり、意識だって「変化し過ぎ去る」状況の連続のなかにある。


結局は、何事も、変わらず一定に留まるものなどはなく、

変化し、過ぎ去っていくもの。



これはいわば、宇宙の理というか、

物理法則のように、当たり前とも言えるもの。



このように、「もろもろの事象は変化し過ぎ去る」。




そして、それがゆえに、


もろもろの事象には確たる実体などない


これが、2つめの土台です。


「自分」や、「自分の権利/子供/資産」すらも「確たる実体などない」…。

と、ブッダは説く。



ホント??


ずいぶんコワイ内容に聞こえるかもしれません。



大丈夫です。ここが踏ん張りどころです。


すこしアタマが混乱するかもしれませんが、

ここの理解(実感)があるほうが、幸せの道はたどり着きやすいのです。


もう少しお付き合いくださいませ。



「自分」って、一体何でしょうか?


自分の身体でしょうか?

意識でしょうか?

そのセットでしょうか?



たとえば、身体としての「自分」。


それを構成する何兆とも言われる個々の細胞の状態はつねに変化し、

あるものは死に、あるものは新たに生まれ、古い細胞と入れ替わる。



数日前に食べたギョーザは、すでに自分の細胞の一部になっているかも。


もしくは、一部はウンチとして出ていったかも。


そして、そのウンチには、かつて自分の細胞だったものも含まれているかも…。



食べる前のギョーザは「自分」でしょうか。


そして、流したウンチは「自分」でしょうか。


どの時点の、どこまでが、「自分」と呼べるでしょうか。



ふざけているのではありません。大マジメです😅。




こうしてみると、身体としての「自分」は、

動かぬ確たる一つのモノではなく、

常に変化し続ける状態であるのでは。



精神/意識としての「自分」はどうでしょう。


「自分」という存在を意識する自分が、今ここに存在する(と意識できる)。



でも、「意識」の中身は、常に変化し過ぎ去り続けている。


今感じている自分の「意識」は、

瞬間瞬間で変化し続け、

直前の「意識」は、もう既に、過ぎ去っている。



身体と同じく、どの時点の意識を「自分」と呼べるでしょうか。


そう考えると、「自分の意識はコレだ!」といった確たるものなど実は存在しないのでは。



※ここの「自分の意識という実体のなさ」は少し捉えがたいかもしれないので、

現代の科学の視点でも考えてみましょう。


今の科学では、実は人間の身体には、自分の細胞数より100倍近い数の微生物たち(腸内細菌など)が「共生」していることが分かってきています。


そして、それら微生物たちは、「幸せ」を感じさせる脳内ホルモンなど、僕らの脳で感情や意識に大きな影響を及ぼす様々な物質を作り出してくれている…。


そう、最近の科学で少しずつ明らかになってきています。


そうすると、果たして、僕らの腹の中に住んでいる大量の微生物たちは「自分」の一部なのでしょうか。


生命の個体単位として見るならば、ヒトである我々と、その体内で生存する微生物たちは、「他人どうし」と呼ぶべきかもしれません。


でも、彼ら(彼女ら?)が、僕らが今もつ感情/意識に影響を及ぼしているとしたら、彼らは「自分じゃない」と言い切れるのか。


自分の体温や食べた物で彼らの状態も刻々と変化し、それにより自分の意識にも影響が起こり続けるとしたら、それは自分自身の細胞たちと自分の「意識」との関係と、さほど変わらないのでは。


「他人」と言い切れるのだろうか。



そう考えると、「自分の意識」というのは、

いつの時点のどこまでが意識!とハッキリ言えるものではなく、

確たる実体と呼べるものなどないのでは。



つまるところ、身体としての「自分」も、精神/意識としての「自分」も、

その時々の条件下の元で次々と「変化し過ぎ去り」続ける状態にあり、

「これだ!」という確たる固定した実体などない。



同じように、「自分の権利」「自分の子供」「自分の資産」など、

あらゆるものは、刻一刻と状況が変化し、過ぎ去る状態の連続なので、

実は確たる実体などは存在しないのでは…。


※「いやいや、自分の子供、は実体があるでしょう」という方への補足的説明。

自分の子供には、たしかに自分の遺伝子の情報が多分に伝わっていますが、同じ遺伝子ではありません。自分の配偶者の遺伝子の情報も混じります。

しかも、自分の子供は、彼/彼女が生きていく環境の条件下で様々に変化していきます。先生、友達、さまざまな体験など。

自分だけが自分の子供の身体や性格を形成していく要因ではありません。

「自分の子供」と呼んでますが、自分の意志や希望とは関係なく、その子も、その時々の条件下の元、様々な独自の考えを育てていき、独自に生きていくものです。そして、親と子の関係も、常に変化し過ぎ去っていく。お互いソリが合わず、縁を切ることだって起こりうる。

自分が産んで大切に育てた子供が「自分子供」じゃない、という事ではありません。

「自分の〜」という概念は、どこまでの何を指すのか、は、その時の条件により常に変化するため、確たる実体というワケではない、という事です。

遺伝子情報の共通点なのか(赤の他人とだって多くの遺伝子情報は共有しています)。

自分の細胞(精子や卵子)から作られたという事実からなのか(少なくとも半分は自分以外の細胞から成り立ちますし、食事により様々な「他の生物」の細胞構成要素も取り込みます)。

自分が産んだという事実なのか(代理出産だってあります)。

屁理屈みたいに聞こえるかもしれませんが、ブッダの考えでは、「自分の子供は思う通りにいかない」といった考えに対し「自分自身すら思い通りに行かないのに、なぜ子供を自身の思い通りにできると考えるのか」と諭すように、「自分の〜」という概念が、さも自分がなんでもできてしまう自分の一部かのような錯覚をもたらす要因だと、と伝えてくれているのです。

この理屈で、自分の資産も、名声も、全て変化し過ぎ去り続ける状態の連続であり、確たる実体が無い。というワケです。


これが、ブッダの思想の土台です。



いかがでしょうか。なんとなく、そうかな?と感じられたでしょうか。



いわば、「自分の〜」と考えるのは、

自分の脳が描いている、錯覚、妄想、とも言える。


国境線、貨幣の価値、正義…。これらも、人により、時代により、様々に変わるもの。



いつまでたっても、

「ここは自分の領土」「これは自分の正義」といった

ヒト同士の争いが絶え無いのは、

実体がないのに「ある」と錯覚してしまうから、

なかなか収まらないモノなのかもしれませんね。



自身の脳が描く以上は、

「確たる実体などない」と言われても、どうしても、

「自分」にこだわってしまうもの。


それはみんなそれぞれ同じなのだと思います。


だから、それぞれの解釈や正義がうまれる。


しかも、その一人の人生の中ですら、

正義の概念も、変化していくもの。


つまり、「変化し過ぎ去り」ゆえに「確たる実体などない」。


だいぶ脳が疲れてしまいましたかね。失礼しました。


でも、ここの土台があってこそ、次の理解が進みやすくなります。


いよいよ、次では具体的な内容に移っていきましょう。



次は「苦しみは自身が生んでおり、自身で流していける」です。

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