苦しみから離れるために、日々できること - 日常で役立つやさしいブッダの教え7

苦しみを流し、離れていくために、日々できること。

その、より具体的な実践へと入っていきます。



最初にお伝えしますが、ここに書かれていることは、

何ら特別な内容に見えず、

極めて当たり前にも感じることばかりかもしれません。



以前ご紹介させて頂いたブッダのラストメッセージ


もろもろの事象は変化し過ぎ去るものである。油断せず努力し続けなさい。


の後半のパート「油断せず努力し続けなさい」にある通り、


「当たり前に聞こえるかもしれないけれど、それを続けていく事に意味がある」


その事を忘れずに、実際の中身に移っていきましょう。




ここでは、「苦しみから離れるために、日々できること」を


- 言葉遣い
- 行動
- 意識


の3つに分けてお話しさせてくださいませ。




まず


- 苦しみから離れるために、日々できる「言葉遣い」


それは


ウソをつかず、悪口を言わず、声を荒らげず、優しい愛のある言葉を心がける

※スッタニパータ143、148、159句


です。


道徳の基本のような、当たり前に思えるかもしれませんね。


でも、大切なのです。



ポイントとしては、


相手を自分の赤子のように、


ないがしろにせず、


慈しみ、


優しい愛のある言葉を心がける


という事です。



ここで言う「ウソ」は、自分の有利のため/保身のための「ウソ」を戒めてます。


相手を必要以上に傷つけないように、ウソが必要な時もあります。


でも、自分の有利/保身のために相手にウソをつくのは、

相手を貶めることになりかねません。


貶められた相手は、自分にどの様な感情を抱くでしょうか。


後に、こちらが不利になるウソを言い返されるかもしれません。


結果、自分にとって喜ばしくない状態を作ってしまうかもしれません。


そして、ウソをつくと、その罪悪感に苦しみがちです。


「あんなウソつくべきじゃなかった」と。


さらに、その後にウソをウソで塗り固める必要がでてきて、

ますます隠すのが苦しくなるかもしれません。



結局、自分のためにも、自分の利益や保身のためのウソはつかないほうが、苦しまずに済む。なので、ウソはつかない


※「ウソも方便」の「方便」は実は仏教用語です。ある気づきを伝えたい時に、ストレートに伝えても伝わりにくそうな時に、その気づきに誘導するよう別な内容を伝えるという手段を言います。この塩梅が難しいのですが、ポイントはあくまで、自分の保身や有利のためではなく、相手のための内容かどうか、です。




そして、悪口を言わない



これも、今さらな内容かもしれません。


悪口を言われた相手は自分に復讐するかもしれません。


悪口を言っている姿自体が、周りの信用を失うかもしれません。


悪口を言うのは相手をマウントして安心したいから?


自分が上にいられるように感じたいから?



でも、「自分が相手より上」という概念自体が、

確たる実体の無い「自分」という意識や、

確たる実体の無い「ランク付け」という錯覚に囚われているのではないでしょうか。


結局、自分のためにもなりません。




続いて、声を荒らげず



これは、後の「行動」で出てくる「怒りに囚われない」でもお話ししますが、

声を荒らげても誰の得にもなりません。



相手は一時的に萎縮して言うことを聞いてくれるかもしれませんが、

恨みを買うかもしれず、周囲の人からの評判も落としがちです。


自分の「思う通りにならない」感情を自分で対処できないで、

外にぶつけて発散しようとしているだけの人間的に未熟な姿を晒すことになります。


しかも、声を荒らげても、「思う通りにならない」状況そのものは改善しませんし、

却って相手の自分に対する態度も硬直化させて、互いの関係が悪くなり、

より「思う通りにならない」方向へ進むこともままあります。


結局、自分のためになりません。




最後に、優しい愛のある言葉を心がける



多くの方は、やさしくされると嬉しいものだと思いますが、

実はやさしい言葉をかけると、

かける側の人間も、ホッコリシアワセを感じるものです。


※恐らくこれは、オキシトシンという幸せホルモンが関係していると研究が進んでおります。



そして、「優しい愛のある言葉を心がける」ことの大切な効果は、

「自分が〜」と「自分」ばかりの価値観や視点に囚われがちな我々のなかで、

「(優しい言葉をかけたい)相手」への意識が生まれることによって、

自分本位な視点への囚われから離れやすい、というものです。


苦しみは「こうあってほしい」という自分本位な視点へ囚われるほどに膨らみがちなものですので、

その囚われから自分の意識を引き剥がしてくれる「他人視点への意識」は、

自分にとっても価値のあるものだと思います。





- 苦しみから離れるために、日々できる「行動」



ちょっと数が多いです。


殺生を避け、盗まず、邪な性的関係を持たず、酒にふけらず、怒りに支配されず、傲慢にならず、貪らず、持てる範囲で分かち合い、善き友と交わり、忍耐力を持ち、集中力を保ち努力し続ける


※スッタニパータ、242-252句、968句、八章「慈しみ」143-152句、ダンマパダ376句、ウダーナヴァルガ第二十五章「友」




まず、「殺生を避ける


これは、言わずとも当たり前かもしれませんが、改めて「何故か?」。



我々が生きている限り殺生は避けられません。


なぜなら我々が食しているものは、かつて生命があったもの。草木にだって生命はあります。


他の生命を頂くことで、自分の生命が続けられる。


我々とは、そういう存在である。


どんな生き物だって、食物連鎖の中で、我々の生活に何かしら必要があるものたち。


それらを殺すのは、自分たちの首を締めることになる。だから、避けるべき。




次は、「盗まず


これもシンプルですね。


盗むと、恨みを買い、自分に跳ね返ってくる。自分のためにならない。




続いて、「邪な性的関係を持たず


つまり、夫婦や恋人以外との性関係や、不特定多数の性的関係を戒めています。


夫婦や恋人がいる人が他の人と性的関係を持つと、当然のことながら、それぞれの和を乱し、相手や自分も苦しめることにつながりえます。


シングルの人であっても、性にふけると、本来集中すべき事に集中しにくくなる。


すると、「思う通りにならない」事が増えがちになる。


性欲は生きている限り消えなくても、刹那な欲に惑わされ、支配されるな、という教えと理解しています。




そして、「酒にふけらない


国によっては、仏教で飲酒は一切禁止している所もあります。


酔うと、判断力が弱まり、邪な性的関係や盗みなどにルーズになる。


時には声を荒らげたり、ウソをついたり。


お酒はコミュニケーションも円滑にし、個人のストレスも和らげたりしますが、

ついついふけりがちになる。


そうすると周りを苦しませたり自分も苦しむ結果に陥りやすい。


※殺すな、盗むな、邪な性的関係を持つな、ウソをつくな、酒に耽るな、までを仏教では「五戒」としてまとめており、様々な国の仏教でも共通して持たれた戒律です。

ただ、初期は5つめの「酒」についてを除いた4つのみで、お酒については後から加えられており、経典によっても「ふけるな」や「飲むな/売るな」など、少し内容に差があります。

大切なポイントは、自分が乱れたり、周りの手段が乱れたりしないように、として5つの戒律が纏められているのだと考えております。




次に、「怒りに支配されず


声を荒らげずでもお話ししたように、

怒りは発散しても、なんら苦しみの解決に繋がらず、

却って周囲との関係を悪くする。



自分の「思う通りにならない」不満への自分の感情は、

一時的に発散するかのような錯覚を感じますが、

周囲にイヤな気分を起こし、相手からの憎しみを買うことにも繋がりかねません。


戦争に代表されるように、怒りに怒りで応えても、なんら解決にならないのでは、と思います。


「怒り」から離れるべき、と、ブッダの言葉でも数多く語られており、

特に気をつけるべきものとして捉えられてます。


なお、「怒り」と混同されがちな、「叱り」について。

「叱り」は、人を良き方向へ導くべく、何かを諭す目的の行為で、

「怒り」とは別物の、価値ある行為と考えています。


おだやかな声で、相手への優しさをもって行わないと、

時に自分の不満を発散し「怒り」につながることがあるので、注意すべきと考えております。


※仏教では、後に出てくる貪り、惑い(痴)に加え、この怒り(瞋)は、

「貪瞋痴(とんじんち)」として「三悪(苦しみをもたらす3つのよくないこと)」としてまとめられています。




傲慢にならず


これも、当たり前のことと感じるかもしれませんが、踏み込んで考えてみましょう。



たとえば、「それ、知っている」というような知識のひけらかし。


これも、他人よりも自分が優れていると思いたい傲慢さの一種だと思います。


「自分」という確たる実体など無いにも関わらず、

ついヒトは、「上の立場の自分」という実体の無い立場を欲しがり、

それを手にした気になり、傲慢さが出てしまうのでは、と思います。


でも、そんな「優位な位置づけ」は、

自分の脳内の妄想の設定でしかなく、実体が無いのですから、

傲慢になってみたところで、「優越感」は刹那に得られても、

実体としては何ら得たものはないのでは。


得るものは一時の安心感や、満足感のみでしかない。


なのに、傲慢な態度は、周囲の人々を遠ざけていくばかりか、

「自分は高みにいる」との錯覚から、

自身を磨き成長の機会を自ら失わうことにも繋がり、結局自分のためになりません。


「それ、知っている」と思うほどに、実はまだ知らないことを知れるチャンスを自ら失っているのかもしれません。




貪らず


これも、大切です。


「むさぼらない」


つまり、「もっと」と求めすぎない。



美味しいから、とつい食べすぎると太り、将来糖尿病など健康で苦しむかもしれない。


お酒も飲みすぎると度を外して周りにメイワクをかけ、自分も苦しむ。


モノも「もっと欲しい」とキリないけれど、荷物やゴミが増えるだけで、


モノが増えても自分自身の人間性が豊かになるワケではないのでは。



「自分の権利」もいたずらに主張すると(貪ると)、

他人の権利やモノを奪うことにつながり、他人とのぶつかりを産んで、

余計な争いを産んだり、集団の中で避けられる存在になりかねない。


結局、自分にとって、「むさぼる」ことで刹那な満足感は得られても、

その満足もすぐに「変化し過ぎ去り」、

後の自分に良いことは残らないどころかマイナスすら残す。



ヒトは、何かを得ても、すぐに満足が消えて、どこまでもむさぼってしまう傾向がある。


そして、それが「足りない」と感じると、苦しみにかわる。


貪るほどに、「足りなさ」も強く感じ、結果的に、自分を苦しめることに繋がる。


なので、貪らない行為が大切である。そんな教えです。




そして「持てる範囲で分かち合う


これは、重要です。


「あの人にも分けてあげたら喜ぶかな」といった意識が生まれると、

つい「自分が」と自分本位に囚われがちな我々において、

他人目線を持てる機会が生まれます。


苦しみの原因にもなる「自分が〜の囚われ」から離れやすくなる。


何より、相手に喜ばれると、自分も嬉しく幸せになれる。


そして、分かち合えるだけ持てているという事実を実感し、それも感謝や喜びを生む。


分かち合うものは、「持てる範囲で」よい。


裕福でなくても、自分が困窮しない程度に、少し分かち合うことはできるもの。


ブッダの教えでも、裕福な人が資産を分かち合うより、カネやモノをそれほど持ててない人からの分かち合いは、より尊いとしています。


なぜなら、それだけ他者に対しての、慈しみ/やさしさの心がないと難しい行為だからです。



さらに、分かち合うものは、何もカネやモノだけでなくてもよく、「心」でもよい。


例えば、お年寄りに席を譲ってあげたり、お店で商品を受取る時に「有難う」と店員さんに挨拶したり。


誰かのために何かを思い、ささやかでも行動に起こしたり、

言葉で伝えたりあげることで、自分の「心」を分かち合うことができる。


これらは、相手に喜ばれ、もしかしたら相手の方も将来自分に何か善きことをしてくれるかもしれないだでけではなく、

何より、「誰かのために何かできる自分」を意識するだけで、幸せ感が生まれるものです。


もともと、自分のカネ/モノも、「変化し過ぎ去る」ものなのです。

自分の生命や心も、いずれ朽ちていくものです。


「自分の分が減る」という「自分の〜」も、確たる実体のないモノへの囚われ、錯覚でしかないのです。


自分が〜という自分本位から生まれやすい苦しみを流し、

新たに幸せ感を手に入れることもできる。


分かち合い、は、とても大切な行為だと思います。


※仏教では「布施」や「喜捨」とも言います。「喜捨」の文字の通り、喜んで、自分のモノやお金や権利などを捨てて、他に分かち合う。

ちなみに、お布施や喜捨する人を「旦那(だんな/ダーナ)」と呼び、これは英語の寄付「donation」とも共通の語源だそうです。「ダンナ」は何かを誰かに奉仕する人。決して、えばる存在などでは、本来無いのですね。





善き友と交わる


とても、道徳的な言葉ですね。



ブッダの教えでは、「悪い友とも交わるな」とも説かれてます。


ここでいう、「悪い友」というのは、

このページで「避けるべき」と説明している「ウソをつく」などを行う人で、

それを避けている人を「善き友」とされてます。


人はどうしても周りに流されがちなもの。


自分が一人何かを保とうとしても、周りがそうでないと、難易度が高まる。


なので、なるべく悪い友から離れ、善き友と交わるとよい。


善き行為も、悪い行為も、伝播し周りに影響する効果があると思っています。


自分が悪い影響をうけてしまわないよう、そして、お互い切磋琢磨して、

善き行為を磨きあえるよう、どんな人達と一緒に過ごすかは、

とても大切な事だと思っております。




さらに、「忍耐力を持つ


時に人から非難されたり、バカにされたり、

思わぬ意地悪に出会うことも、生きていればあるでしょう。


そんな時に、「自分」という、実は確たる実体のないモノへの囚われが強いと、

「自分は大切な存在のハズなのに…(下に見られ、思う通りにならない)」

と感じ、苦しくなります。



我慢をしろ、という事ではありません。


我慢は、かえって苦しくなります。



「バカにされたくない、非難されたくない、下にみられたくない」


という苦しい感情は、


「下に見られるべきではない、しっかりしたポジションの自分」を


自分の中に描きたがるから、強くなるのです。



そもそも、「自分はこうみられたい」という像(プライド)自体が、


自分の脳内にしか描いてない、確たる実体のないものなのだ。


なんと他人から言われようと、それは一人の他人の解釈でしかない。


自分の周りで、他人の「声」という音波が過ぎ去っていっただけの現象。


それによって自分の肉体が傷つくわけでもない。



「(そういう意見や解釈もあるのだね)」

「この方、何か自身に不満を抱えているのを発散したいのかな」

など、さも自分の事を客観視するようにやさしさをもって眺め、

その意見をあるがまま見つめ、

「自分にご興味もって頂き、また、ご意見頂き有難うございます」

と感謝しつつ流していけばよい。


我慢してると感じるときは、

まだどこかで「〜〜と見られたい自分」の錯覚だと思い、

手放せるように努力していきましょう。


そうすると、苦しみにくくなります。


※仏教では、忍耐ではなく「忍辱(にんにく)」として表現されてます。

辱めや苦しい状況に対しても、耐え忍ぶという意味です。




最後は「集中力を保ち努力し続ける


これは、もうそのままですね。でも、とても大切です。


我々は、油断していると、すぐに眼の前の刹那な刺激に惑わされたり、

「自分本位」に囚われた考えになったりするもの。


ここに書かれた、様々な「保つべき言葉遣い、行為」なども、すぐに忘れてしまうもの。


だから、努力を続け、保ち続けて行かねば、すぐにいい加減になる。


そして、一度いい加減になると、

ゴハンやお酒を「もっと」と貪るように、どんどん行動の乱れにつながっていく。


そうすると、どんどん、ワガママな自分主体の行動が増えていき、

自然界や周囲の人たちとの摩擦も増えて『思う通りにならない」状況も多くなり、

苦しみも多くなる。


だからこそ、集中し続けていくことが大切。




- 苦しみから離れるために、日々できる「意識」


最後は「意識」についてです。それは


欲に振り回されず、偏見なく、囚われず、惑わず、謙遜し、感謝する




まずは「欲に振り回されない


当たり前かもしれませんが、これもしっかり噛み砕いてみましょう。



苦しみは「思う通りにならない」状態から起こる。


「こうあってほしい」「こうあるべき」と囚われると、

「思う通りにならなさ」が強まり苦しくなる。


この仕組みにおいて、「欲」は常に苦しみを生み出す原因にもなりうる。


決して、「欲」そのものが悪いわけではない、と考えてます。


欲があるから、成長ができる、大切なもの。


欲を消すなんて、生きている限りは不可能ではと考えております。


ヒトは、空気を求め、食べ物を求め、伴侶を求め、生命を紡いでいるものなのだから。



でも、欲はたしかに人を惑わす力も強い。


なので、欲そのものを無くすのではなく、「欲に振り回されない」ことが大事では。


貪らない」という教えとも繋がりますね。


つい人は、「もっと」となりがちなので、

欲が沸き起こっている自身に注意深く気がついて、

振り回されないように自身を見つめる努力が必要。



でも、どうやったら、うまく、自身を注意深く見つめられる?


これについては、ブッダは、

実践的な方法として「呼吸に意識を向ける」ということを説いたとされています。


これはまた後にお話しさせて頂きます。




偏見なく


僕らが見る世界は、僕ら自身の脳を通してしか観察できてないので、

どうやっても僕ら自身による解釈がベースとなる。


同じ山の風景を見ても、

「キレイだな」と形態や色彩に意識が向く人、

「杉植林が多くて花粉多そう」と植生に意識が向く人、

「噴火しないだろうか」と不安を感じる人。


などなど、様々。


でも、僕らは「自分が観る世界」という意識が、確たる実体として錯覚しがちで、

「他の人も、自分と同じ観かたをしている」と錯覚しがち。


ヒトは、「観たいと欲する姿しか観てない」ものなのですね。



「こんなキレイな山の近くで住めたらイイね」

「いや、花粉まみれでマジ最悪なんですけど」

「噴火がコワイから、はやく離れようよ」


このように、自分の見えている世界や、自分の解釈は、

あくまで「自身によるもの」であり、

他の人とは違いがあって当然。


なのに、「こういうもの」と自分の解釈を押し出すと、

「偏見」(自分本位に偏ったものの見方)として、他の人と衝突が起こりがちになる。


もしくは、他の人の考えや気持ちを理解しにくくなってしまい、摩擦が生じやすい。


「自分の〜(見立て、解釈)」は、「確たる実体などない」と正しく識ることが、

他人とのぶつかりが減り、苦しみにくい。



他人が関わらない、自分自身の、

例えば「自分は恵まれてない」といった考えも、

いわば、自身で解釈/判断しただけの、偏った見立てとも言える。


実際他人がどう思っているか分からないし、「劣っている」という確たる実体など、

何をもって言えるのでしょうか。


さらに恵まれてない状況のヒトだって、たくさんいらっしゃるかもしれません。

まずは、生きているじゃあないですか。

死んでないだけでも、恵まれているじゃないですか、という解釈だって、可能なものなのです。


「こうだ」という判断/解釈は、

自分が自身をそう思い込ませてしまっているだけかもしれない。


あらゆる「自身の見立て、解釈」は、

つねに「自身だけの視点」なので「偏りがあるだろう」という意識を持つ。


「他の視点から観たら違って見えるだろう」と、

自分本位にならず他者視点を持つことで、

物事を偏りなく見立てやすくなる。


自身だけの見立てばかりに主張し、こだわるほど、

それが囚われとなり、自身を苦しめかねない。


「偏見がある」というのは、イヤな聞こえ方かもしれませんが、

「見立てはヒトそれぞれだよね」と思えると、「偏りなさ」を持ちやすいかもしれませんね。





囚われない


これも、「欲に振り回されない」「偏りなく」と近しい要素がありますが、

あえてしっかり見つめましょう。


たとえば「不安」。


未だ来ぬ未来が、「どうなるのか把握して安心したい」と願うほどに、

未来ゆえに分かるものでもなく「思い通りにならない」が故に起こる苦しみ。



「過去」も、過ぎ去ったと書く通り、今からはどうにも変えられない。


「あのときこうしておくべきだったのかも」と気にかけるほどに、考えても答えが得られる問いではなく「思う通りにならない」ので、後悔として、苦しみになる。


今自分ができるのは、今のことのみ。


だけど、未来や過去に「囚われ」が起きると、

今の大切な時間がどんどん過ぎ去っていってしまう。


また、インターネットでは、ニュースや動画やSNSの投稿など、常に刺激に満ちた情報が溢れている。


ついつい、「もっと」と貪って観続けたくなる。


こういった外界からの様々な刺激に簡単に「囚われ」、

大切な事に集中することを忘れがちになる。


そして後で、後悔したり苦しむことになりかねない。



もしくは、苦しい環境から「〜〜が理由で離れられない」とか、

チャレンジしてみたいけど「〜〜だから自分にはできない」といった考えも、

自身だけの「偏った」解釈に「囚われ」ているかもしれない。


一歩踏み出してみたら、世界が大きく変わるかもしれない。



「自分にはどうせ…」

「ホントは変えたいのに思う通りにならない…」


その偏見を手放すことで、その囚われから抜け出すことで、

おおいに心が解放されるかもしれない。


囚えているモノなど実は存在しておらず、

自身が意識の中で生み出した、実体の無い「自身の妄想/錯覚」でしかないのでは…。



それは、自分の小さな一歩を「努力し」てみることで、大いに変わるかもしれない。


手放していけるかもしれない。



「囚われ」は、離れてみて初めて


「なんでこんな、何でもない事に自分で自分を縛っていたのか」


と気がつく、実はちいさな錯覚でしかないもの。



囚われている最中は、囚われている自分にすら気が付きにくいのですが、

常に、自身を客観視して

「囚われてないか?」「偏りもって解釈してないか?」

「第三者の目線で観てみたら、どうだろう?」

などと自己を観察すると、囚われている自分に気づきやすくなると思います。


この「囚われに気付く」実践的な方法も、後に述べさせて頂きます。




惑わず


「偏り」、「囚われ」、「怒り」、「欲」など、

ヒトは実に自身を惑わす要素に囲まれています。


どうしても「自分」を中心にばかり物事を考えがちなものですが、

他人視点から自分を観察する機会を持つと、

自身を惑わす要素に振り回されてないか、

「苦しみから離れるために、日々できること」に向かえているか、

などチェックをしやすくなります。


これは、自己観察する機会を持っていくうちに、トレーニングされて、

惑いにくい自分を作れるようになっていきます。


この方法も、呼吸を通じた自己観察として、後に述べさせて頂きます。




謙遜する


謙遜は、けっして自分を貶めることではありません


「自分が〜」と自分本位になりがちな自分を自覚する行為。


ヒトは、多くの様々な生き物の中で、

食物連鎖の一員としてゴハンを頂けている「自然の一生命でしかない」。


そういった事実を、偏りない見立てで理解すること。



様々な人達が働くことで、日々の電気や衣服や道具を使わせてもらえている。


どんな肩書や立場だろうと、自分だけが何か特別などではなく、

衣食住を保っていくには、社会の人々の協力に頼らずを得ず、

その社会の一員に過ぎないのだ。


こういった事実を、偏りない見立てで理解すること。



謙虚をうしない、「当たり前」と感じると、その環境からさらに「貪り」が生まれ、

徐々に「奢り」へと膨らんでいく。


そうすると苦しみが増していくのは、「奢らない」のパートでもお話ししましたね。


自分の意識は自分しか感じないがゆえに、

つい自分は何か特別な存在と、自身の意識が錯覚を起こしてしまいがち。


なので、「奢らない」だけでなく、「謙虚さ」を意識することは大切。


そういった教えだと理解しています。




感謝する


「あたりまえのコトじゃん」と流さないでくださいませ。


ブッダの言葉は、「あらゆるものに確たる実体は無い」など、

時に冷徹に聞こえてしまうのですが、

実はとても慈悲に溢れた、やさしい言葉に満ちています。



貪り」があると、どれだけ満たされていても満足せず

「足りてない(思う通りになってない)」と苦しみが生まれる。


でも、仮に1日1食であっても、

「(食が)ある」ことに意識を向けると、感謝の気持ちが生まれてきます。



感謝が心から起こると、人は幸せな気持ちを得ることができます。



「ない」を言えば、キリなく「貪り」が生じ苦しくなるのだけど、

同じ状況に対しても「ある」ことに目を向けていくと、自然と感謝が生まれてくる。



だ、見立て/視線を変えるだけなのですが、とても大きな変化となります。



「感謝しよう、しなきゃ」という気持ちだと、

なかなか満たされた気持ちは実感しないかもしれません。


でも、例えば、今の自分の環境よりも遥かに「ない」状況の自分や他人を思い浮かべてみる。

震災で寒い中で家も失い、電気も通らず寒い中で、家族の安否も分からず、食料もすくなく震えている。


戦火で家族もバラバラになり、自分もいつ爆発に巻き込まれるか常に寝れない。

余命数ヶ月の宣告を突然うけてしまって、途方にくれる。


病気で、刻一刻と身体が動かなくなっていく。


目が見えなく、声が聞こえなくなっていく。


それら、全て、

自分の身にいつ降りかかるとも分からないことではないでしょうか。



「そんなことは自分には起きないだろう」


それは、自身の脳が勝手に希望して生み出した


偏り」の実体の無い姿ではないでしょうか。


でも、いつ何が起こるか分からないのが、現実の世界です。



そんな未だ来ぬ未来に心を「囚われ」て苦しんでもしかたがないのですが、

少しそういった想像を持つだけでも、

実は今ある自分が決して「無い」恵まれない状態だとも言いきれず、

十分に「ある」ものを頂けている、

有難い(有ることが難しい、当たり前ではない)状況にいる、とも言えるのではないでしょうか。



繰り返しですが、

我々は「自分の意識」を通してしか、世界を眺め、認識できないので、

どうしても「自分の〜」という見立てばかりに囚われが生じるもの。


でも、「自分」というのも確たる実体など無いものであり、

「自分の〜」は自分だけが持つ偏った見立てでもある。


その見立て、つまり自分本位な見立てばかりに囚われるほど、

自然も他の人達も、それとは関係なく動いていくので、

「自分にとって、思う通りにならない」事も増えていく。


そして、その考えに囚われるほどに、苦しみへとつながっていく。


そんな傾向が多い我々だからこそ、

自分はあくまで自然の中の生物の一個体にすぎず、

なんなら腸内の大量の細菌たちにすら助けられていて、

つねに自然や他の生き物や他の人達に支えられて、支え合って生きている。


そう、気づくことが大切では。


そして、他人を想い、他人を慈しみ、「感謝」を感じることで、

自身の幸せも感じられるのでは。


かつ、「自分が」という自分本位視点から自身の意識を引きはがすキッカケにもなるのでは。


こんな理由から、特に「感謝」というブッダの教えが大切では、と感じてます。





以上、少し長くなりましたが、


言葉遣い、行動、意識


3つの視点で、

ブッダが説く「苦しみから離れるために、日々できること」をお話しさせて頂きました。


※この3つは「身口意(しんくい)」として表現されています。ここでの各項目の「身口意」への分類は、諸意見があるので、あくまで自分なりの分類です。分類がどこかよりも、各項目それぞれの中身が重要と考えております。

たくさんあったので、最後にまとめます。


言葉遣い

ウソをつかず、悪口を言わず、声を荒らげず、優しい愛のある言葉を心がける



行動

殺生を避け、盗まず、邪な性的関係を持たず、


酒にふけらず、怒りに支配されず、傲慢にならず、


貪らず、持てる範囲で分かち合い、善き友と交わり、


忍耐力を持ち、集中力を保ち努力し続ける


意識

欲に振り回されず、偏見なく、囚われず、惑わず、謙遜し、感謝する


全部覚えるだけでも、ちょっと、たいへんですよね😅。


補足ではありますが、これらの教えを日常でも忘れにくくさせる、


僕の自己流の発展での「日々できる実践」のより具体的な内容を


「(補足)苦しみから離れるために、誰でもできる日々のオススメ by 龍光」


として、後にご紹介させて頂いております。


こちらは必ずしもブッダの教えではありませんが、ご興味があればご覧くださいませ。



そして、次は、ブッダの教えを元に、


「呼吸」という、超実践的な方法について説明を進めて参ります。


次、「呼吸に意識を向け、自己に意識を向ける」へ参りましょう。


もう少しでゴールです。「最後まで油断せず」頑張りましょう




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